エレミヤ書22章 四人の王への裁き
おはようございます。四人の王に具体的に裁きを伝えるエレミヤがいます。実に緊張感のある預言であったと思われます。大切なのは、神が求める悔い改めが何であるかを考えることなのでしょう。神との人格的な交わりに生きる信仰の歩みが求められていることです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.四人の王の定め
さばきは、国に対してというアバウトなものではなく、個別の王に直接語られていく。ここでは四人の王があげられる。1-9節の「ユダの王」は、21章からの流れで言えば、ゼデキヤ王のことである。ゼデキヤは、ダビデの地位に付きながら、ダビデのような歩みをするわけではなかった。だからゼデキヤの家は廃墟となり、彼の国も荒野にされる。
10-12節は、シャルム王について。10節「死んだ者」はヨシヤ王のことである。しかしメギドで戦死した父よりも、その後を継ぎ、三カ月で廃位され、エジプトに連れ去られ客死した王シャルム、つまりエホアハズ(2列王23:31-34)のために泣けという。彼は捕虜のまま、故郷に戻ることもなく死んだユダ南王国の最初の王となった。
13-23節は、エホヤキム王について。エホヤキムは、シャルムの兄でシャルムの後継者として即位したが、父ヨシヤと違い、主の前に悪を行う王であった。重税を課し(2列王23:35)、労働者に正当な賃金を支払わずに宮殿の増改築を行い、贅沢三昧の日々を暮らしていた。まさに「広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取り付けて杉の板でおおい、朱を塗る者」(14節)、「目と心は、自分の利得に向けられ」た者である。また、エホヤキムは異教的な儀式を王国にもたらした(2列王24:3)。その王に対して神は、誰もその死を悼まず(18節)、その死体は野ざらしにされる(19節)と警告する。
最後にエコンヤ王(24-30)。エコンヤは、エホヤキムの子どもで、エホヤキンとも呼ばれた。エホヤキンには幾人かの子どもがいたものの、結局彼の地位を引き継ぐ者は誰一人いなかった。24節「右手の指輪の印」は、王家の印となる存在を意味し、神はその存在を引き抜かれる、という。実際、BC597年、エコンヤは、母や王家の者とともにネブカデネザル王に降伏し、バビロンに連れ去られ、37年の捕囚の後に釈放されているが、二度とその地位を回復することはなかった。そして400年以上続いた南ユダ王国は途絶えてしまう。
2.あなたに語りかけた
それぞれの王とその家族の運命をはっきりと語るエレミヤが、どのような緊張感をもってこれを語ったのか想像に難くない。実に耳に痛いことばであった。しかし彼らは悔い改めることはなく、警告されたとおりの運命を辿った。注意すべきは、彼らは、神を知らぬ人々ではなかったことである。また神を知ることは、日々の生活の中で配慮ある生き方をすること、つまり倫理性や道徳性が重んじられることと表裏一体である(16節)。ヨシヤ王の宗教改革は、祭儀礼典を復興する表面的なもので政治の腐敗、道徳の堕落にメスを入れるものではなかった。つまり神の心を思い計り、人心を大事にする政治の改革ではなかった。大切なのは心の改革であり、変えられた心が映し出される信仰の歩みをすることだ。