23章 神は生きておられる
おはようございます。バビロン捕囚からの帰還、つまり新しい出エジプトに関する預言がなされます。後半は、偽預言者に対する警告と裁きを告げることばです。誰のことばに、どんな内容のことばに耳を傾けていくか、注意したいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.新しい出エジプト
ユダの最後の王ゼデキヤに対する神の裁きが繰り返し語られる。国家を滅びに至らせた王に代わる新しい指導者を起こすと言う(5節)。具体的には、捕囚帰還の際にイスラエルの民を率いたゼルバベルのことを言っているのだろう(エズラ記2章)。だから7節、8節は、捕囚帰還を第二の出エジプトと見なして、神の御業としてのバビロンからの脱出物語が起こることを預言している。
ただこれをゼルバベルに当てはめるなら、そこには未完の部分があることを心得て読む必要があるだろう。つまりハガイ2:22にあるように、ゼルバベルの時代には起こらなかった部分があるからだ。やはりここも預言の二重性の性質を踏まえて読む必要がある。つまり、「一つの正しい若枝」「公正と義を行う」主が立てられる新しい指導者は、イエスにおいて実現するのであり、そのイエスが、私たちの捕らわれの人生に新しい出エジプトをもたらすのだ、と読むべきところである。
大切なのは、罪と世の奴隷の中にある者が「主は生きておられる」と信仰をもって、未知の世界に踏み出す勇気を持つことなのだろう。そして主の支えによって、新しい一歩を踏み出すことである。
2.預言者への裁き
9節以降は、「預言者たちについて」と明言されているように、偽りの預言者に対する裁きのメッセージである。彼らの問題は、第一に道徳的な堕落である。「主と、主の聖なることばのために、ぶどう酒に負けた男のようになった」(9節)は面白い言い回しである。神のみことばによって、人がいかに生きるべきかを教えられる時に、あまりにもその道徳的堕落の激しさを覚え、めまいがする、と言うようである。
第二に彼らは、神のことばを忠実に語る者ではなく、心の偽り事を語る者たちである(16、26節)。神のみことばは混ぜ物をせずに純粋にみことばとして語られなくてはならないが、語る者の願い、思いを語るために利用される、紙一重の行為がある。神と神のみことばに対する恐れがなければ、当然の結末である。神を人間と同じようなものと考えている限り、人は神の言葉を使いながら、神よりも、自分を語ることに熱心となる(23、24節)。
最後に偽預言者は、神の言葉を弄ぶ(34節)。彼らはエレミヤ語録を作り物笑いの種にした。「恐怖が取り囲んでいる(20:3)」に続いて「主の宣告」もそうである。そこで、神はエレミヤにもう一つの語録「主はどう応えられたか。主はどう語られたか」(35節)を彼らの口に与えよ、と言う。偽者の教師は確かに存在する(1ヨハネ4:1)。大切なのは、主に心を向け、神の語り掛けを自ら無心に聞き分ける心を持つことだ(ヨハネ10:4,5)。