申命記12章 申命記法典:礼拝に関する規定
1.基本的なみ教えの適用(12:1-26:19)
1)礼拝についての諸規定(12:1-17:7)
11章の終わりは、12-28章の内容と実は逆順に対照的な構造をしています。つまり11章の終わりには、①祝福と呪い(26-28節)、②ゲリジムとエバル(29-30節)、③戒めに従うようにという命令(31-32節)と大きく三つの内容があります。続く12-28章にも逆順に①命令(12:1-26:16)、②ゲリジムとエバル(27:1-8,11-26)、③祝福と呪い(28:1-68)と三つの内容があるのです。これは、イスラエル詩に特徴的なキアスムス(交差配列法)という修辞的構造だとも言われています。
ともあれ12章からの内容は、一般に「申命記法典」と呼ばれるもので、12-15章にわたって儀式律法を、16章以下は市民律法を扱っています。それは、5-11章で語られた律法の精神の詳細な適用という風に考えてよいものです。そしてこの12章は、礼拝に関する規定ですが、申命記法典全体の序論にもなっています(1-28節)。
(1)異教の礼拝を取り除く(12:1-4)
最初に、イスラエルの民は、約束の地カナンにおいて異教的な礼拝の偶像とその場所をことごとく破壊するように命じられています。イスラエルの民が礼拝し仕えるべき神は、エジプトから彼らを救い出した主のみであり、礼拝する方法も、主が命じる方法ですべきである、と言うわけです。
しかしこの命令は徹底されなかったこともあり、イスラエルの歴史には繰り返し、土着の偶像礼拝が盛んに行われる時代がありました。そして、アサ(1列王15:11-14)、ヒゼキヤ(2列王18:3-4)、ヨシヤ(2列王23:4-25)等の王による宗教改革が行われています。彼らは、目に見えないまことの神ではなく、石や木で出来た偶像崇拝に容易に傾倒したのです。本当に信じ、崇めるべき神は、どんなお方であるかを考えたいところです。
(2)主の定め(場所、物、方法)に従う礼拝(12:5-19)
5-7節では、どこで、どのように、主を礼拝すべきかが教えれています。先にも言いましたが、神を礼拝するためには、自己流に(8)、どこでもしてもよいというわけではなく(13)主の定められた方法(25)に従うことが求められているのです。天地万物をお造りになり、万物の支配者であり、かつ、私たちを罪の奴隷の深みから救ってくださった神の御前に出るというのなら、やはり、その神のみこころを差し置いて、自分流のやり方の礼拝を押し付けることはありえません。神がどのように礼拝をしてほしいと思っておらえるのか、良識のある人間として、自然な配慮と言えます。
当時礼拝は、会見の天幕でなされていました。会見の天幕を中心に、部族は整然と配置され生活し、ささげ物は必ず会見の天幕へと携えられました。また約束のカナンの地に入ってからは、異教の祭壇をそのまま流用することはなく、新しく神殿を設け、そこでささげ物を献げました。つまり神が定めた場所で礼拝は行われたのです。私たちの礼拝も、定められた場所、自分が所属する教会ですべきものでしょう。
また、そこで何を献げるか、神はささげ物についても定めておられます。全焼のいけにえ、ほかのいけにえ、10分の1、奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、牛や羊の初子というように(6)。それらを主の定められた場所に携え、家族と共に主を喜ぶことを(7、11-12)命じておられます。つまり、礼拝においては、主の祝福を覚えて、家族で感謝せよ、と言うのです。礼拝は、堅苦しい、真面目腐ったものではなく、明るく、健康的な部分があるのです。事実、礼拝は、宗教儀式以上に、一週の歩みの中で主の祝福と安息を喜び楽しむ時なのです。
2)礼拝的生活(12:20-32)
次に異教的環境の中で、どのように日常の生活を進めるべきかが語られます。まずは異教的な習慣に影響されないことです(30節)。しかし、後に彼らは、自分たちの息子、娘を火で焼き、モレク(レビ18:21、20:2、エレミヤ32:35)に、またバアルに献げる過ちを犯しています(エレミヤ19:5)。
イスラエルの民は、新しい地に入り、その新しい生活様式を一つ一つ教えられているにも関わらず、その教えから離れてしまった歴史があります。神のいのちにあって新しく生まれたというのなら、そのまことの神を礼拝し、神のみこころにかなう新しい生活を築き上げていくことです。そのためには、まず自己流ではなく、聖書によく教えられていくことでしょう。では今日もよき一日であるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ゲリジム山とエバル山、どちらが高い山であったでしょうか?答えは、エバル山です。ゲリジム山は標高881メートル、エバル山は、938メートルでした。では今日の聖書クイズを一つ、イスラエルの民を祝福することばを語る場とされたのは、ゲリジム山、エバル山、どちらでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
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