申命記18章 どのようにして知ることができるか

申命記18章 聞き従うべき存在、預言者のことば

1.レビ族についての定め(18:1-8)

イスラエル12部族の内、レビ族は、祭司の役割を担う者として、相続地を与えられませんでした。というのも、神ご自身が相続地だったからです。そして彼らの生活は、神殿に献げられた物の中から支給される、と定められたのです。レビ族は、神の民が十分の一のささげ物の定めに忠実である限り、その生活を保障されました。そのような意味では、牧師の生活が成り立つのも、神のみことばと教えに専念するその働きに理解を示し、これを支える信徒の心があればこそ、ということになります。

2.真の指導者(18:9-22)

1)イスラエルが聞き従うべき存在(9-14)

次に神は、イスラエルの民が、約束の地での異教的な習慣に惑わされないように命じています。つまり、占い、まじない、呪文、口寄せ、こういった異教的な習慣を避けるように、むしろ、まことの神を認め、その神により頼む生活を求められるのです。現代の科学的な思考に慣れた私たちですら、新聞や雑誌、テレビに占いがあって、そこに、自分の今日の運勢を語るものがあると、何となく、それに囚われた思いになるものではないでしょうか。そんなものは迷信だと思っていても、もしかしたら、占いが言うとおりかもしれないと、まさに「異邦の民は卜者や占い師に聞き従ってきた」と言うことが起こりうるのです。しかし、信じ恐れるべきものはただ一つ、天地万物をお造りになり、この世界を支配しておられるまことの神のみです。そしてその神は、預言者を通してご自身のみこころを語り伝えてきているのです。

2)預言者を見分ける(15-22)

モーセもその預言者の一人でした。ですからモーセの説教集であるこの申命記は、まさに神の私たちに対するみこころを語る書というものです。聖書こそが、私たちに、また私たちの人生に何を語っているのか、それは、テレビ画面のテロップで流れる占いよりも、雑誌の囲み記事にある今日の運勢よりも重要だということです。そして神のことばであると言う以上、それをどのように聞くか、語るかも、注意を要するというわけです。神が語っていないことを、さも語っているかのように語る、これは、死に値する罪であると言います。確かに、神という存在があるならば、そのとおりでしょう。

ともあれこの時代は、まだ聖書が確立されていない時代でした。つまりこれが神のことばだとまとまって明確に示されていない時代です。ですから、神のことばを識別する判断材料が必要でした。そこで21節、モーセは、神から遣わされた預言者であるかどうかを判断する指標として、語られた神のことばが実現するかどうかに注意を向けているのです。もし実現することがなければ、それは預言者が不遜にも語ったことですから、気に留めるようなものではない、と言うわけです。

そのような意味で、神の言葉としてまとめられた聖書がある今日、私たちは、誰が神の言葉を語っているのか、という識別に、一々心を煩わされる必要はありません。神の言葉を語る者は、モーセであり、イザヤ、エレミヤ、そしてイエスであり、パウロと、もう定まっているからです。そしてこの印刷された聖書そのものが神の言葉集であると受け止め、彼らが何を語っているのかにもっと注意を向けるべきだということになるでしょう。そして、神が語り、それが歴史的に実現してきたこと、また、歴史的に実現すべきものというよりは、私たちの人間のあり様として語る普遍的な真理、神が私たちに期待しておられること、さらに、これから私たちの時代に起こることとして神が計画しておられること、また人間の死後の世界に関すること、すべて神は、ご自身のみこころを聖書に明らかにされておられるのですから、これをよくよく丁寧に読み解いていく、ということが大切です。そのような意味で、聖書全体を読む、しかし、一挙にこれを読むことはできませんから、毎日コツコツと、積み重ねるように、学び、理解し、神の言葉に従う歩みを進めていきたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

 

<クイズコーナー>

最初に、昨日のクイズです。聖書の中で最初に出てくる王は、誰でしょうか?答えはニムロデ(創世記10:8-12)でした。では今日の聖書クイズを一つ、旧約時代に、まだ用いられていなかったと思われる占いの方法はどれでしょうか?①杯、②夢、③肝、④矢、⑤テラフィム、⑥タロット、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

 

<天草さんのフォローアップ>

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