1サムエル記29章

29章 イスラエルの敵陣に立つダビデ
<要約>
おはようございます。窮地に立たされたサウルに続いてダビデが描かれています。サウルもダビデも窮地に立たされている。良いことも、悪いことも、全て等しく皆に与えられるのです。その中で、いかに、神を信頼し、神の善であることに躓かないかが重要です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.窮地に立たされたダビデ
先にサウルが窮地に立たされている状況を見たが、ダビデはダビデでまた窮地に立たせられていた。彼は戦争に駆りだされたのであるが、相手は同胞のイスラエルであった。それは、たとえ自分のいのちを救うためであっても、本来手を組むべきではない者たちと手を組んだ結果であった。しかし、アキシュ以外は、誰も、ダビデのことを信用しなかったために、ダビデはこの窮地から救われることになる。
私たちもしばしば、本来近づいてはならないものに近づくことがあるだろう。「不信者とつりあわぬくびきを負ってはいけない」(2コリント6:14)とは言われているが、それこそ様々な意味でつりあわぬくびきを負って歩むことがある。ダビデのように間違った陣営に迷い込んで、結果的には神のみこころとはおおよそ異なる行動を要求されることがある。
ダビデはアキシュに自らの誠実さを主張しているが、実際はそうではない。ダビデは二枚舌の大ウソつきであった。アキシュはダビデを「何のあやまちも見つけない」(3節)「正しい人」(6節)「神の使いのように正しい」(9節)と評価したが、彼は完全にダビデに騙されていたのである。しかも、その嘘と偽りに塗り固められた人生は、「このしもべに何かあやまちでもあったのでしょうか」(8節)と堂々とはったりをかますほどに、完璧なものであった。しかしながら、ダビデのこのような倫理観をどう考えるべきであろうか。ダビデはその心の矛盾に悩んだのであろうか。
ダビデは詩篇で謡っている「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください」(56:9)。憎しみと敵意の集中砲火を受け、まさに先の見えぬさすらいの人生を歩まざるを得ない状況の中で、その心はねじれにねじれ、ダビデ自身苦しんでいたのだろう。
イスラエルの王位を約束されたダビデにとって、王国から蹴り出され、一つの小さな独立勢力とさせられてしまったその気持ちはいかばかりであろうか。能力や人望がありながらも、それらを頭ごなしに否定されていくのである。しかしそのような状況にありながらも、ダビデは謡うのである。「神にあって私はみことばをほめたたえます。【主】にあって私はみことばをほめたたえます。神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。神よあなたへの誓いは私の上にあります。感謝のいけにえであなたにそれを果たします。まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに神の御前に歩むために。」まさに、信仰を働かせることのできない状況にあって、信仰を働かせることを学ばなくてはならない。
2.もっとパット救ってくださってもいいのに
ただ、このようなダビデの状況を見ながら、憎しみと敵意の集中砲火の中で、まさに先の見えぬさすらいの人生を歩む、そこで命拾いするだけ、それを神のあわれみと思うだけの人生なんて、どんなものか、と思われることもあるのではないだろうか。人によっては、そんな救われ方ではなくて、すっきり救われたい、と思うところではないだろうか。サウルが即座に王位から追放され、ぎたぎたにされ、ダビデが翌日からでも王位に返り咲き、意気揚々と新しい出発をするような、そんなことでも起これば、神が私たちを救ってくださった、神が私たちの味方であるとはっきりと理解できるのに。どうしてこのような微妙な救い方なのか?と。しかし、ダビデは後にそれを実感して、ミカルに軽蔑されるという状況に至るのである。神の救いは、やはりちょうどよい時があるというべきなのだろう。微妙な救い方であっても、命ながら得ていることに、先の祝福があると考えるべきである。
3.神に躓かない
しかもダビデの不誠実さにもかかわらず、神は、着実に、ダビデの手に王国取り戻される道を整えておられたことに注目したい。神は、ご自身の永遠の定めを変えられることはない。神が始めてくださった救いのみ業は、私たちの状態とは関係がなく、日々完成されていくように導かれている。神はご自身の愛する者のために、すべてのことを働かせて益とし、最善をなそうとされている。だから「私に躓かない者は幸いである」とイエスが語ったように、善き神に躓かないことである。私たちの人生は、イエスの十字架の恵みによって、神の祝福の中にあることは確かなのだから。私たちが不誠実であっても、神は真実である。
神は死せる者の神ではなく、生ける者の神である。神は生きておられる。その豊かさを感じるのは、ダビデもまだ先のことであった。だから自分が神を信用せず、間違ったパートナーと手を組み、誠実さどころか、偽りで塗り固められた人生を歩み始めていると思うことがあるなら、潔くそのことを認め、神のあわれみに寄りすがることなのだ。神は、思いがけない結果を導いてくださる。私たちの真実さを回復させてくださる。その片鱗しか感じられないような中でこそ、神に信頼しつつ歩んでいくのが、信仰なのであり、信仰者の成熟でもある。

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