11章 王ダビデ
<要約>
おはようございます。今日は、ペンテコステ礼拝、私は、朝10:45より、日本キリスト教団如鷲教会で礼拝、午後14:00から福井自由キリスト教会にて、PBA支援者の集いでメッセージをいたします。福井県におられる聖書通読仲間の方々にはぜひお会いできれば嬉しいですね。気軽に声をおかけください。さて、いよいよダビデ物語に入ります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.油注ぎを受けた王ダビデ
既に歴代誌は、サムエル記、列王記を自由に取捨選択して、編集が施されたものであり、つまりそこに著者の聖霊に導かれた深い意図があることを述べたばかりである。実際、ダビデ物語の記録についても、ダビデの初期のエピソードは大幅に省かれ、彼はいきなり王として登場し(1-39節)、彼に従った勇士たちの名があげられていく(40節以降)。しかもダビデの実力を認め王として推奨したのは、全イスラエルとなっています。
4-10章の流れで見たように、イスラエルの一致団結の強調は、捕囚後のイスラエルにとって重要なものであった。歴代誌は、分裂王国の時代に、幾度か再統一の試みがなされたことを記録しているが(2歴代30:1-2)、この箇所では、全イスラエルがダビデによって一つにまとめられたことが強調されている。これは、キリストにある教会の働きによる終末的な再統一を連想させるものである(ヨハネ4:4-42、使徒8:4-25、黙示録7:9)。
2.王ダビデへの期待
さて王となったダビデには、牧者であり君主であることが期待された(2節)。人々は、ダビデが羊飼いとなり、支配者となることを求めた。「君主」と訳されたことばは、ヘブル語で「ナーギード」。一般的な王を意味する「メレフ」ではない。それは「戦争の指揮を執ってきた」と認められる軍事的な指導者を意味する。彼は、羊飼いとして善良な王であると同時に、その時代の動きに即してリーダーシップを発揮する王であることが期待されたのである。実際ダビデはエルサレムを占拠し、さらにその町を再建した。
大切なのは、この記事を読んだ最初の読者、つまり捕囚帰還民がどう読んだかである。灰塵と化したエルサレムの町に帰ってきた者たちに、歴代誌の著者は語りかける。5節、「ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。」つまり、廃墟と化した町の前で、これを再建するのに、途方に暮れる思いを抱いていた彼らに、この町は、かつては勝ち取られた町である、もう一度勝ち取っていこう、と語りかけるわけである。そしてさらに8節、この町は、元々イスラエル人が修復し、再建したものであると教えるのである。つまり著者は、単にこの町の歴史を振り返っているのではない。町の再建への積極的な動機付けを促すエピソードとして、ダビデの王としての活躍を取り上げているのだ。そしてさらにそれは主と共に可能なことであると(9節)と力づけている。リーダーシップのみならず、神が、彼らと共にある、神がこれを完成させてくださるのだ、というわけである。当時の読者の目線で読んでいけば、決して、単なるダビデの偉業をなぞることにはならないだろう。この書は、私たち一人一人に、挑戦的な神の働きへ取り組むことを促してくれるのである。
3.ダビデの勇士たち
10節以降後半は、ダビデの勇士たちのリストとなるが、これは、2サムエル記23:8-39の拡大版であり、時系列を無視して種々の支援者をまぜこぜにした総括版となっている。つまり、ダビデの生涯を通してダビデに仕えた者たちのリストである。普通は、このような素晴らしい能力を持つ勇者たちによってダビデは支えられた、素晴らしくも羨ましい!と読む。しかし、このリストは、ユダ出身の者たち(26-30節)、北の集落の者たち(31-37節)、イスラエル人ではない者たち(38-41a節)、そしてヨルダン東側とつながりのある者たち(41b-47節)と、地理的にまとまりをつけて記録されている。つまりダビデが英雄に支持されたというよりも、一致団結すべきイスラエルの広がりにこそ注意が向けられるのである。
また、挿入されたアドラムのエピソードは(15-19節)、ダビデが王として期待された牧者であったことを思わせる。ダビデは自分のために運ばれてきた水の中に、いのちをかけた者たちの苦労と血を見てとる王であった。いつでも指導者は、神の大きなビジョンを示し、神の働きへと人々を指揮していかなくてはならない。しかし、そのために協力者が提供するのは、働きではなく彼らの血であり命である。目には見えない苦労と汗をきっちり見ていける指導者であることが、神の民を牧することになる。
そのような意味で、教会を建てあげることにおいても、やはり必要なのは、再び勝ち取っていこう、という高められた士気を持つことでしょう。たとえ物事がどんなに困難に思われることであっても、全ては戦い取られたものであることを覚えて、神の恵みが力強く下されるように祈り、挑戦すべきです。また、お神輿を担ぐ時には皆が力を出すべきです。誰かがやってくれるだろう、とは思わずとも、人は元来他人任せの意識で物事を進めているものでしょう。奉仕にしても、献金にしても、やりたいことをやりたいようにする、あるいは取ってつけたようなことをするのではなく、教会の必要がどこにあるかを覚えて、しっかり物事を産み出すような働きをしたいものです。そして、目立つ働きをする人だけが奉仕をしているわけではありません。表で発言することがなく、皆が顧みることもないにもかかわらず、陰で黙々と、血を流し、命を削る働きをしている人がいるものです。そのような人を認める力のある教会は強いのです。