1歴代誌18章

18章 神による勝利

<要約>

おはようございます。私たちの祝福の土台は、イエス・キリストの十字架の契約にある。この考え方は徹底されなくてはなりません。そうでなければ、私たちは自分の何かが、神の祝福をもたらしたと厚かましい考え方を直ぐに起こしやすいものです。私たちは、ただ神の恵みとあわれみの中に生きている、この真理を深く受け止め、契約に基づくダビデの祈りを自分のものとしましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.契約に基づくダビデの祝福

18章から20章は、ダビデがイスラエル帝国を創設していく概要となっている。主として軍事的勝利による領土の拡大を記録し、2サムエル記8章~23章の中に散在している記録をまとめている。だから、ダビデに不利な事柄を削除し、ダビデの軍事的な成功を数え上げているようにも思われるが、そうではない。サウルの家族に対するダビデの寛容さ、ダビデの詩篇などの記事は省かれており、サムエル記ではダビデの業績とされた勝利が、ダビデの将軍の功績とされている(18:12-13)。著者は、どうやら、ダビデの戦勝を、ダビデ契約と神殿建設準備との関係で描こうとしている。つまり、著者はダビデが英雄視されることを注意深く避けているのである。

むしろ著者が注目させようとしているのは、18章で繰り返えされること「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」ということばであり、彼の戦勝の秘密は契約にある、ということを言いたいのである。ダビデにそのような力があった、というのではなく、予め交わされた契約にその秘密があった、というわけだ。

こうして最初の読者であった捕囚帰還の民は、契約の成就としてのダビデの業績を読みながら、自らの再建に幻と力を与えられたのである。というのも彼らに必要なメッセージは、まさに無力で、弱く、無一文となり、もうこの先の生活について考える力もなく、途方に暮れる思いでいた者に、約束の故に、大丈夫、これから必ず良きになると言ってくれる存在であった。つまり神の全能性への信頼である。

ダビデは祈っている。「どうか、主よ。あなたが、このしもべとその家について約束されたことが、とこしえまでも真実をもって行われますように。あなたの約束どおりに行ってください。」(17:23)。彼らはまさにダビデのこの祈りを祈るべきことを教えられていくのである。

自らを省みる時に、自分には神の祝福など何もありえない、と思うことはあるだろう。頭がよいわけでも、要領がよいわけでも、人間関係が上手なわけでもない。まして、何かよい人脈があるわけでも、後ろ盾があるわけでもない。これから先どんな望みがあるだろうか、何か物事が進むならば、神のあわれみによる以外にはない。という心境があれば、それこそが、捕囚の民のそれであったのであり、彼らはそういう中で、ダビデ契約の効力を教えられていくのである。契約に基づいた祈りに応え、祝される神がおられる、そんな考え方を大事にしていくことを学んだのである。たとえ、どのように不可能と思われることがあっても、だ。

2.勝利をもたらすのは神

ダビデは周囲の四つの敵を討っている。ツォバの王ハダデエゼルは、戦車一千、騎兵七千、歩兵二万を備えていた。当時のイスラエルの戦力が、果たしてこれに対抗しうる軍備を持っていたのかは疑わしい。アラムの軍隊は二万二千、エドムは一万八千、ダビデは、これらの軍隊に勝利した。ダビデは強い!凄い!ではない。神の契約に対する忠実さは素晴らしい!なのである。神が契約に基づいてダビデに勝利をもたらした、ことにこそ注目されなくてはならない。ダビデは後に、「神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です」(詩編60:12)と歌っている。しばしば私たちは、自らの能力の限界を認めざるを得ない。しかしそうであっても、勝利をもたらすのは神ご自身なのである。そのような意味で、私たちは、神の契約に立って祈ることを学ばなくてはならない。2000年前、イエスが十字架上で自分自身を犠牲にし、交わしてくださった血の契約は、今の私たちにも有効なものだ。その契約に忠実な神を信じるのである。

3.ダビデの内閣

15節以降は、ダビデの内閣について記されている。その中に「エホヤダの子ベナヤ」と興味深い名前が出てくる(17節)。ベナヤは祭司の子として生まれた(1歴代誌27:5)。しかし、彼は兵士となり、モアブの二人の英雄やイスラエルには周知の「堂々としたエジプト人」、さらには雄獅子を打ち殺したエピソードがある(2サムエル記23:20-23)。そしてソロモンの時代に、軍団長として抜擢されている(1列王記2:35)。ベナヤは、祭司の子であるから、本来は、世襲制の祭司として、安逸な人生を歩むこともできたはずだ。しかし彼は敢えて、王の兵士として生きる危険な人生に飛び込んで行った。ある意味で、最悪の状況で、最悪の敵に立ち向かって生きることをよしとした人物である。そして神は彼に勝利を与えられた。彼もまた、ダビデのように、神の約束に生きた者である。信仰に生きようとするなら、その約束を生かすような状況に自らを置いていくことも大切なのだろう。望みきところにこそ、神の約束を思い起こし、これに信頼して生きる者でありたい。

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