2列王記22章

22章 ヨシヤ
<要約>
おはようございます。クリスチャンとしてやっていることは同じでも動機づけが違うことはあるものです。クリスチャンとしての熱心さは表面上は同じように見えても、神のみことばに堅く結びついた歩みをしている人とそうではない人がいるものです。ヨシヤとヨアシュ、2列王12章のエピソードはよく似ています。しかし、違う点に注目して読んでみましょう。今日も、あなたが主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ヨシヤの自立的信仰
ヨシヤは、8歳で王となり、31年間王であった。7歳で王となり、40年間王であったヨアシュを思い浮かべさせられるところである。しかし、ヨシヤとヨアシュは明らかに異なっている点がある。ヨシヤは、主の目にかなうことを行い、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった、という(2節)が、ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、そうであった、という。つまりヨシヤは自立的な信仰を持ち、ヨアシュは祭司エホヤダに支えられた信仰であった。
このような自立的な信仰を考える時に注目されるのは、本章のエピソードである。つまり、ヨシヤが、発見した聖書の光に照らされて、それに応じようとした点である。実際にヨシヤは、初めに聖書を読まずとも神に熱心であった。彼は神を愛し、神の神殿をしっかり再建しようとし、神殿に納められたお金を計算し、これを工事に使うように指示している。しかし、さらなる熱心さは、その神殿再建の際に見つかった律法の書に由来するのである。人のことばでも、期待でもなく、神のみことばに彼は動機づけられて、主を求めているのである。
つまり、ヨシヤにあってヨアシュになかったものは、まさにこの神の御言葉との対峙であろう。神のみことばと向かい合うことの有無であった。そこで教えられるのは、神とひざを突き合わせて、聖書通読を重ね、神のみことばによって心を照らし続け、そこから出てくる信仰の歩みこそ、大事にすべきである、と。けれども、不思議なことに、そのような積み重ねがなくても、キリスト者風に生活することはできてしまうのである。実際、聖書を読んだり読まなかったり、しているクリスチャンは実に多い。キリスト者と名打っても、その見せかけは同じであっても、動機付けの部分で大きく違う、人々がいる。
奉仕もする、献げ物もする、やっていることは同じであっても、自分都合でしている、あるいは人に言われるのが嫌だからやっている、というヨアシュ的な人もいれば、本当に神のみ言葉に動機づけられて、神のみことばから右にも左にもそれない熱心さを持つ、ヨシヤ的な人もいる、というわけだ。
2.主を求める
ヨシヤは、側近たちに命じた「行って、この見つかった書物のことばについて、…主を求めよ」(13節)。神殿再建を行う同じようなエピソード(2列王12:4-16)が記録されながら、ヨシヤにあってヨアシュにないものは、この点である。ヨシヤは、ただ自分の良かれと思うことを行うだけの信仰ではだめだと気づき、神の御言葉を開きながら主を求めていく。神の御言葉を軸として生きていく、信仰の歩みへと進んで行くのである。信仰的な人生ではなく、聖書的な人生を目指していくのである。ヨシヤが読んだのは、申命記、ことに28,29章であっただろうと考えられているが、どこかで、こうした信仰生活の転換がなされなければならない。神の御言葉に動機づけられて、右にも左にもそれることのない歩みをする、聖書的人生を生きる転換である。そこに私たちが気づかない限り、いつまでも祈願と感謝だけの人生、自己満足的にキリスト者風に生活するだけの人生になってしまうだろう。そして、この複雑な世にあって、決して人の魂を動かすような人生を生きることにはならない。まさに神のことばに動機づけられた、神と一つ心の働きであればこそ、人はそのことばに耳を留めることだろう。
3.主のあわれみ
後半部分は、主を求めるヨシヤに対する神のことばである。女預言者フルダは、二つの言葉を伝えている。それは、耳痛い神の裁きのことばである。神が語られたとおりに、ユダは裁かれるというものだ。だが、心痛めて主の前にへりくだったヨシヤに対しては、神の憐れみのメッセージが語り伝えられている。大事なところだろう。神は、物事を定めたとおりに進められるお方である。しかし、機械仕掛けのように、融通の利かないことはなさらない。神は人の生身の心の叫びを見過ごされない。神はあわれみ深いお方である。
私たちはしばしば、聖書のことばが耳痛いことを語ると思うことがあって、しっかりそれを受け止めようとしない。だから、中途半端に聞いてしまう。そして中途半端なままに自ら滅びを選んでしまうところがある。だが、きちんと神のことばに耳を傾け、神のことばの前に悔い改めようとするならば、神はその態度を評価し、私たちによきに物事を計らってくださるお方である。「それで、あなたは自分の目で、私がこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない」(20節)。自己流ではない、神のみことばから右にも左にもそれずに立ち続け、応答をする歩みを今日も心がけさせていただこう。

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