エゼキエル書44章

44章 祭司とレビ人、神殿奉仕の新しい秩序

おはようございます。新しい神殿の新しい用具、そして新しい人材。新しい葡萄酒は新しい革袋にと言うところでしょうか。しかしそれらは既に教えられていたことでもあります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神殿とは何か

神殿の東向きの門、いわゆる正面の門は閉じられたままにしておき、開けてはならないと命じられます(1節)。それは、神殿に戻られた神が、もはやそこから二度と離れず、いつまでも臨在される決意を表明したことばです。ですからもはや何人たりも、その象徴的な意味のある門から神殿に入ってはならないと言います。一国の国王といえども、そこを使わず、別の入り口を通って、神殿に入らなくてはなりません。祭司が食事をする建物は別にありましたから(42:13)、国王はその内側でパンを食べることを許されるのです。

そういうわけで、エゼキエルも北の門から神殿に入ります(4節)。するとなんと、主の栄光が主の宮に満ちているではないですか。彼はひれ伏して、主の栄光を拝するのです。すると、神が、神殿について、して欲しいと思っていることが語られます。イスラエルの歴史において神殿は、あまりにも冒涜的な扱いを受けてきました(イザヤ1:13)。神は、あなたがたの礼拝はもうたくさんだというのです。(6節)。コロナ禍にあって思うことは、神が、かつてと同じように、私たちの礼拝を見ておられることはないだろうか、ということです。そんな悲観的に考えなくても、と言う方々もいるかもしれませんが、果たして教会は神の栄光の満ちる場とされ、エゼキエルがその栄光の前にひれ伏したように、私どもの礼拝がなされていたであろうか、と考えさせられるところです。

2.神殿に仕えるべき人々

9節「心に割礼を受けていない、異国の民は誰もそこに入ってはならない」ここで言う異国の民は、戦争捕虜のことでした。少し背景的な説明が必要な部分です。つまりそもそもレビ人は、歴史的にヤコブの妻レアの第三子レビに由来する部族で、出エジプト以降、彼らは契約の箱の運搬、そして幕屋や聖所での奉仕を担うようになりました。彼らは同じレビの子孫の中のアロンの家の監督下に奉仕するように定められたのです。ところが、ダビデ、ソロモン時代に入って、神殿が建立されると、もはや幕屋運搬や組み立ての役割が不要となり、多くのレビ人は、祭司として用いられるようになります。また神殿奉仕の他に、民を教える教育的役割も果すようになりました。そしておそらく、このような経緯の中で、神殿奉仕の卑しいと思われる仕事、つまり、神殿の門を見張る警備の働きや、いけにえとして持ち込まれた動物を屠ったり解体したりする仕事は、戦争捕虜にさせるようになったようなのです。しかしそのような骨惜しみと神に対する不誠実さが、イスラエルの宗教を堕落させることになりました。たとえ卑しい仕事であれ、神の宮の中の奉仕は、異国人ではなくレビ人にさせるべきことが命じられます。彼らは、再び神殿の雑務を担当し(11、14)、祭司として働いてはならない(13)、と命じられるのです。

そして祭司として仕えることができるのは、レビ人の中でも職務に忠実であったツァドクの子孫だけ、と限定されます(15節)。ツァドクは、ダビデの後継者ソロモンを指示し、ソロモンに仕えた祭司です。大切なのは、神の宮における神に対する忠実さです。17-22節は、祭司の一つ一つの所作に、神を敬い、神に忠実であろうとする心が現れることを語っています。それこそ、教会のしるしであり、未信者への証というべきものでしょう。

28節以降は、そのような祭司の受ける分、生活が支えられるべきことが語られます。祭司は、常に神の事に集中してその務めを果たすことが本分です。そこで彼らの生活は、その働きによって支えられなくてはなりません。牧師の生活も同じでしょう。牧師をその職務に専念させ、その生活を支えることは、信徒の責任であると同時に祝福なのです。