エゼキエル書37章

37章 枯骨の幻

おはようございます。本日の箇所は、新約聖書における重要なメッセージの二つのポイント、新生と平和な神の国の実現について語るものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.枯骨の幻

エゼキエルたちが、バビロンの捕虜となって早10年が過ぎようとしていました。人々は捕囚の地の生活に慣れ初め、その地の住民となりつつありました。そこにエルサレム滅亡の悲報が届きました。祖国エルサレムが破壊され、墓場と化した、と。帰国への淡い期待は無残に打ち砕かれました。

そこに神のことばが語られます。絵画的に、イメージでももってイスラエルの回復が語られるのです。ただ、彼が見たエルサレムは、破壊直後の地獄絵図ではなく、破壊から何年も経った風化したエルサレムでした。もはや、完全に回復の見込みも断たれ、忘れ去られた町エルサレムだったのです。ですから、そこは三方谷で囲まれたエルサレムではなく、人骨で埋め尽くされた平地のエルサレムというべき場所でした。ただ、エゼキエルの預言で場所は重要ではありません。重要なのは、「骨」と「息」の変化です。エゼキエルが預言すると、枯骨に筋がつき、肉が生じ、皮膚でおおわれ、さらに預言すると、「息」が彼らの中に入って、命ある者となった、ということです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか?」(3節)という神の問いに対する答えは、「イエス」でした。

恐らくそれは、後の読者、つまり、希望を失い生きた屍、枯骨と化した思いで捕囚の地に生きることを余儀なくされたユダヤ人にイスラエル回復の望みを与えたことでしょう(11-14節)。そればかりか、後にイエスは、この箇所を引用してニコデモの疑問に答えています(ヨハネ3:8)。つまり人が世にあって新しく生まれる経験がどのように起こりうるのか、という疑問に対して、神の霊による不思議がある、と答えるのです。枯骨に吹いた神の息は、ヘブル語でルアーハです。イエスが使った「風」ということばは、ギリシャ語でプネウマですが、ヘブル語訳新約聖書では、この単語をルアーハと置き換えています。つまり、人が新しく生まれる奇蹟は、神の息によるものなのです。人は神の息吹に命を授けられて生物学的にこの世に誕生するのですが、人生のどこかで、再び神の息吹を受けて、新しく生まれた者となる恵みに与ることができるのです。

2.二本の杖の幻

15節からは、二本の杖の幻が書かれています。これは明らかに、イスラエル北王国とユダ南王国、二つの王国を象徴しています(16節)。将来イスラエルは、北と南の分裂もなくメシヤを王とする一つの国として回復される、と言うわけです(22節)。確かに、この預言は当時のユダヤ人に、イスラエル回復のビジョンを与えたことでしょう。しかしその後のイスラエルの歴史は、いっそう難しい問題に直面しました。残された民が、異邦人と結婚し、サマリヤ人と呼ばれるようになり、新たな差別が生じ、民族的な統一はいっそう困難、複雑なものとなったのです。そこでこの預言は終末的に理解すべきものとされるわけです。確かに使徒ヨハネも、大祭司カヤパのことばを引用しながら、メシヤとされるイエスが二つのことを実現すると語っています(ヨハネ11:49-52)。つまり、メシヤとして人に新しいいのちをもたらすこと、そして敵対的ですらある人類の多文化的状況を乗り越える新しい秩序をもたらすことです。使徒パウロは、ユダヤ人と異邦人に和解がもたらされ、あらゆる民族が一つとされること、それはキリスト教の奥義であると語っています(エペソ2:11-22)。エゼキエルは、この章で、新約聖書の極めて重要な二つの教え、新生と和解について絵画的に語っているのです。しかもそれは、永遠の契約として語られるのです。つまり物事に誠実な神の約束です。主を信じる者の確かな希望があります。