エゼキエル書35章

35章 エドムに対する預言

おはようございます。文脈を無視して、突如挿入されたかのようなエドムに対する裁きの預言です。しかし実際にはそれは神の深い配慮を伝え、回復への思いを強くする預言です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エドムに対する裁き

イスラエル回復のメッセージの中に、挿入されるエドムに対する裁きのメッセージです。ここでエドムは、セイルの山と呼ばれています。そこは、死海からアカバ湾に至る山岳地帯で、元々ホリ人という先住民が住んでいました。そして、エサウとその子孫、つまり聖書でエドム人と呼ばれるようになった民族の住処となった場所です(創世記25:25)。そこには、かつてナバティア王国が存在していました。赤茶けた岩だらけの山肌に、古代王国の遺跡の数々が築かれていますが、映画「最後の聖戦」の撮影舞台ともなったペトラは、その代表的な場所で、よく知っておられる人もいるでしょう。最近は鉄砲水で、観光客が犠牲になったニュースも流れた場所です。

それはさておき、ここで語られるエドムへの裁きのことば、これまでの流れからすれば、何か非常に唐突です。本来ならば、イスラエル周辺諸国への裁きが語られた25-32章の間に位置するものではないか、と思わされるところです。しかし、ここには文脈的な意図があったと考える方がよいのかもしれません。つまり、先の34章でエゼキエルは、イスラエルが回復されるために「悪い獣」を取り除くと語っています。それは、弱い立場にある者から搾取する者を取り除くことですが、その確証として、神がいかなる不正をも見逃さないことを語ろうとしているのです。ですから35章の鍵は10節「しかし、そこには主がいたのである」でしょう。これは、33章で「言っている」ということばが繰り返され、神が人々の日常の会話をしっかり耳にしていると語られることと同じで、神はまさに、私たちの生の生活の現場におられるお方であることを語っています。神は、人の表情の陰りを一瞬たりとも見逃すような方ではないと言っているのです。人は神がわき見をしている間に、悪さを済ませようと考えるかもしれませんが、それは決してかなわないのです。

2.やつにも同じようにする

そのように読むとこの35章は実に味わい深いものがあります。もともとイスラエルを憎んでいたエドムは、バビロンにエルサレムが滅ぼされることをことさら喜びました。そしてイスラエル人が捕虜となって連れ去られた後、その地を自分たちのものにする絶好の機会が訪れたと考えました。イスラエルが戦争でやっつけられたのですから、何の遠慮があるものでしょう。これは儲けた、綺麗にみんなもらってしまおう、誰もがそう考えるに違いありません。しかし、神が与えられたものを神のお許しなしに自分のものにすることは許されません。ですから厚かましくも、人の不運に付け込み、何もかも奪い取ろうとする者が現れたとしても、慌ててはいけません。なんてことだとほぞを噛んで自分を痛めつけてはなりません。主がおられるからです。主は「わたしは必ず「やつ」を罰する。やつが憎しみからあなたに対してふるまったのと、同じほどの怒りとねたみをもって、わたしは「やつ」をさばく(11節)。「わたしは、「やつ」に同じようにする」(15節)と語る神がおられることを覚えて、神にやるせない気持ちを委ねることです。

主を信じ従う者ならば、どんなことがあっても、落胆したり心を腐らせてはなりません。泰然自若として、一切を神の正しい裁きに委ねることです。神は、悪を裁かれますが、それは私たちを聖めるため、叩き潰すためではありません。その機会に乗じて悪さをする者が現れたとしても、心配するに及びません。そして神は、ご自身の目的によって損失があるなら、ヨエルを通じて語ったように償ってくださるお方です(ヨエル2:25)。神の深き慈愛に今日も信頼し、期待してまいりましょう。