イザヤ書57章

57章 至高なる神
おはようございます。神は天高き至高な座におられながら、その心は、低き私たちの心に寄り添うお方である。世の不正も、悪も、不条理も全て見抜いて、正しい裁きをなさり、正しき者に、いのちを恵みを賜るお方です。その神を信じるか否か、腹を決めるべきでしょう。
今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.イスラエルに対する叱責
 56:9から、神の群れに敵対する者たち、つまりイスラエルの指導者に対する叱責が語られていた。57:1は、その神の群れについて語る。彼らは、義人であり、誠実な人々である。彼らの報いは、終末的な展望からすれば大きいものなのだが(54章)、この地上でのそれは無に等しい。だが神の激しい裁きを前に取り去られることは、実際には幸いなのである。他方、不信のイスラエルの指導者に加えて、不信のイスラエルの民は、神の怒りに晒される。
 5節、「あなたがたは、谷や、岩の裂け目で子どもを屠っているではないか」これは、アハズ王(2列王16:3)やマナセ王(2列王21:6)が熱中した、子どもを犠牲としてささげるモレク崇拝を言っている。6節「谷川の滑らかな石がお前の分け前」これも当時の偶像礼拝の行為を指している。谷川の水際、あるいは水無川にある石に、油、ブドウ酒、穀物をささげて拝む土着信仰があった。そしてしばしばそれは、性的な戯れと結びつく行為となった。イスラエルの民も、指導者も他国の偶像崇拝に心を傾けていたのである(9節)。
人が人として扱われず、神が神として認められない時代があった。しかし、イエスの時代もまた同様であった。真の牧者が滅びることをよしとし、正義が踏みにじられることに無関心であった時代である。歴史は繰り返すのだ。
2.「わたし」の祝福
イザヤは、そのような時代に生きる人々に向かって語り掛ける「わたし」、つまり神を代弁する。そしてまことの神に身を寄せる人生と、偶像に熱心な人生の違いを語る。つまり、「わたし」に身を寄せる人生は、生き延びる人生であり、神の祝福を受け継ぐ。だが、偶像に熱心なものは風が吹き飛ばす籾殻のように消え失せる。51章でイザヤが熱弁した二つの運命を再読したいところだ(51:1-8)。
そしてこのように語る「わたし」がどのような方であるかを明確に語る(15節)。第一に、その方は「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方」である。神は永遠の存在であり、聖い、近付くこともできない至高なる方である。しかし同時に、「砕かれた人、へりくだった人とともに住む。」お方である。イエスがそうであったように、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくし、自らを低くし、人間と同じ人生を歩まれ、人の苦しみをつぶさに経験された方である。それは、「へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」ためであった。しかも神は、ご自分に敵対する者といつまでも争っている方ではない。むしろ自ら関係を回復させようと、遜って近づき、癒そうと、語られるお方である。神の平安を素直に受けることとしよう。

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