ペテロの手紙第二1章

2ペテロの手紙1章 殉教間近のペテロのことば
1.牧師として何を最期に語るのか(1:1- 9)
14節を読むと、ペテロはこの手紙を書きながら、自分の殉教がもう間近であることを感じていたようですね(14節)。伝承によれば、ペテロは、ローマ皇帝ネロの迫害の時代(AD54-68)の末期に殉教した、と考えられています。この手紙がAD67 年頃に書かれたというのはそういう理由なのでしょう。ともあれ、この時ペテロは、ローマの獄中にあって、もはやこれまでと覚悟を決めて、告別のことばを残そうとしたのです。
果たして、そのような時に牧師として何を語るのか、自分が世を去った後にも、信徒に守ってもらいたいことは何か、やはり、それは、10節、自分の救いを完成するように、信仰に励むことでしょう。キリストにある罪の赦しの恵みによって、キリストの永遠の御国に入る恵みを約束されているのですから、それを益々確かなものにして欲しい、それは、牧師が信徒一人一人に心から期待するものですね。ペテロは、そのために七つの事柄に熱意を傾けて欲しいと語ります。
①徳を加える(5節):信仰というのは、個人的なものに留まらず、神と人への奉仕のために役立つものとなるものです。キリスト者はおひとよしではなく、人徳のある人なのです。
②知識:しかも物事をよくよく理解しながらも、他者に対する配慮や心遣い、さらには力添えを忘れない人徳を持つ人です。
③自制と④忍耐:となれば、自制や忍耐も兼ね備えた人でしょう。
⑤敬虔:ギリシア語の元々の意味は、「よい礼拝をなすこと」、つまり神との正しい関係を持っていることを意味します。⑥兄弟愛と一緒にすれば、神と人と正しい関係を持つ、そのような人だということでしょう。
⑦愛:最後に何よりもキリスト者を特徴づけるのが、愛、つまりキリストの十字架愛です。
「信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛」これらに熱意を傾けて、自身の救いを完成させていく、これが、牧師として信徒に期待することですね。
2.謙虚に神の言葉に聞く(1:12-21)
茶道家は茶道に精進し、剣術家もまた同じであるように、キリスト者も、自分自身の救いを極めなくてはなりません。自分の召しと選びを確かなものとするように、一層信仰に励む努力が必要なのです。ただそれは、簡単なものではありません。自分の魂を吟味し磨くように、日々神のことばに向かい合う、これを10年、20年忠実に続けられる人は、実際にはそれほど多くはないでしょう。そして私たちが目標とするキリストの高さも、エベレスト山のようにはるかに高いものです。おそらくペテロは、殉教間近に、改めて自分の現実を思う時に、かつて変貌山で目撃した、キリストの栄光には全く及びもつかない状態にあると思わされていたはずです。実際ペテロは変貌残で目撃したキリストの聖さを「世のさらし屋ではとてもできないほどの白さ」(17、18節、マルコ9:2-8)と言いましたが、それは、人間の努力で到達できるような目標ではありません。格別なる主のあわれみによって引き上げていただくのでない限り決して達成しえないものです。そのように、自分自身の現実を思う力があれば、遜って神の言葉を探求する心にもなることでしょう。ペテロのように、変貌山の格別な体験を持つ人というのはいないのですから、まずは聖書のことばに、心を留めて、自分の歩みを方向付ける光としていくことです。そして決して勝手な解釈によって、光としないことです。今日も、自身の救いを達成するため、自己流ではなく、謙虚に、正しい理解を目指しながら、聖書に向かい合いたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ペテロが自身の手紙の中で、バビロンということばを象徴的な意味で使っているようです。実際にはどこにいたと考えられているでしょうか?」答えはローマでした。様々な可能性が考えられますが、古代バビロンの無神論性や贅沢、堕落は、当時のローマにも通じるものがあり、そのように呼ばれたと考えられています。では、今日の聖書クイズを一つ。ペテロの手紙第二とよく似ていて、どちらかが下敷きになったとか、影響を受けたと考えられている手紙は何でしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!