13章 ヨブの問
<要約>
おはようございます。最近、カチンの森事件(第二次大戦初期の1939年に旧ソ連軍がポーランドに侵攻、ソ連軍がポーランド人将校ら約2万人の捕虜を大虐殺したという事件)の調査報告書が発刊されたと聞きました。世には、そのような矛盾があり、神がこれを許された、ということは、なかなか納得できないものです。しかし、真摯に神に向かい問いかけるヨブの姿に、腐ってはならない、擦れてはならない、と思うところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.お前たちは神の代弁者のつもりか
既に12章で述べたように、強者が弱者に横暴を働く歴史的事実、そしてその歴史的事実を、弱者の側に立つはずの神が許されている矛盾、神は破壊者だ!ヨブは、全てこの矛盾に悩む者の代弁者である。その言葉が過ぎようと、そうだそうだ、とヨブに気持ちを重ねたくなるのは、私ばかりではないだろう。
「私はあなたがたに劣っていない」(2節)私は、直接神と言い合いたい。そもそもあなたがたは神の代弁者のつもりか?「あなたがたは偽りをでっちあげる者」「脳なしの医者だ」(4節)。黙っていれば賢く見える愚か者、そのものではないか(5節)。ヨブの怒りが表われている、と言ってよいだろう。
ヨブの友人たちは、ヨブが何か罪を犯している、と決めつけるところがあった。そして彼らは、まことしやかに人生の法則を語るが、ヨブの現実を知っているわけではない。このような実に憎むべき短絡的な議論や不幸というものは、人間社会にはよくあるものではないか。まるで神の代理人どころか、神であるかのように、言い争ってくる(8節)。事の詳細も知らず、調べようともせずに、物事を決めつけて断罪してくるのである。神があなたがたのそのような現状を調べられて、あなたがたは心咎められないのか(9節)。そして後で、自分の事の進め方のまずさを感じると、その不手際を隠し通そうと、ともかく力づくで有罪に持ち込もうとする。だが、そのようなことを神が黙っているはずがない(10節)。神は正しいお方であり、不正を赦されないのだ。責任逃れをしようと、事を穏便に済まそう、としても無駄である。神は、あなた方を恐れさせるだろう(11節)。
12節第三版では「格言」と訳されていたが、2017では「申し立て」となっている。新共同訳では「主張」と訳される。これまでのやりとりの中で、使われた数々の知恵あることばのことだろう。それらは実に、空しい灰のように飛び散ることば、剣を受け止めることもできない、何の役にも立たない盾と同じである、という。
ヨブ記の議論を読みながら、途中で引き出しを開けてしまいたくなるような思いになるところだ。そうだよね!そういうことってあるよね!人の言い分を何も聞かず、物事を決めつけて議論してくる、否、何かを言っても少しもわかろうとしない三人の友達の姿は、世の中に起こる事柄の縮図でもあるよね!と思うところである。
2.まずは、私の言い分を聞いてくれ
とにかく黙ってくれ、私に話させてくれ、とヨブは言う。もうこうなったら、何が起ころうとかまわない(13節)。ヨブの体当たりの談判である。もはや残されていないいのち、ならばそのいのちをかけて、神の前に立とうではないか(14節)。私の大胆不敵さに神がお怒りになって、私を一息に消し去ることがあってもかまわない。私は自分の疑問を神にぶつけ、そのまま朽ち果てよう(15節)。いや、神は私の言い分に、答えてくださるはずだ。というのも、そもそも神を敬わない者に、こんなことができるはずもない(16節)。自分の心にやましさがないからこそ、できることでもあるのだ。だからまず私の言い分をよく聞いてくれ。実際、私が語りだせば、私が正しかった、と神も頷かれることはわかっている(18節)。だから、もし誰かが説得力のある反証によって私と議論し、私の非を認めさせる者があるならば、その時には、あきらめよう。潔く、私が受けるべき死の判決を受け入れよう。
ヨブのことばは聞いていて、実に気持ちがよい。いわれもない濡れ衣を着せられた時には、このように神ににじり寄って訴えればよいことを教えてくれる。
3.では、神様、お聞きください。
20節以降、ヨブの神への直接的な語り掛けが始まる。もはやヨブは、三人の友を相手にはしていない。ただ、心の目を神に向け、神に語り掛けている。そしてまず議論開始の前に、二つのことをしないでください、とお願いしている(20節)。一つは、神の御手を遠ざけること、つまりはこの災いを遠ざけることだろう。神の鉄槌で、いたずらに人を怯えさせず(21節)、私が語り、あなたが語る、普通に理性的に語る場を設けて欲しい、ということだ(22節)。
そこでヨブは語り掛ける。まず、これまで三人の友人が問題にしてきたこと、今の苦しみが罪の故であるとするならば、その事実を示して欲しいと言う。自分が気づかずにいる罪の数々を、聞かせて欲しいという(23節)。また、人間が不条理に苦しむ時に、なぜ神はそ知らぬふりをするのか、なぜ不条理を許し、不条理をもたらす者たちと共に私の敵になってしまうのか、教えて欲しい、という(24節)。
そもそも、私は万物を創造し、支配される神に何ができるというのか。吹き散らされた木の葉のごとく、吹き飛ばされる乾いた藁のごとく、全く無力な、社会の片隅で音もなく消え去る泡沫で、神の目に留まるはずもない者なのに(25節)。このような人間を、地の片隅からほじくり返して見つけ出し、厳しくその罪を追求するのはなぜか。ユダヤ人であれば、13歳になれば、バル・ミツワー(バルは、ヘブル語で「息子」、ミツワーは「戒律」を意味する、つまり「おきての子」)の儀式で、大人になったと社会から認められることでしょう。それは、神の戒めを守る、宗教的、社会的責任を持つようになったことを自覚する歳でしょうが、それ以前の若い頃の咎の責任を取らせようと言うのですか?どうしてですか(26節)?あなたは、私を奴隷のように扱い、一瞬たりとも監視の目を離さず、私の足の裏に、債務のある奴隷である印を入れ墨されたのです。そのように腐った物のような落ちぶれた人間、虫が食ってボロボロになって捨て去られるだけの私を、なぜ、追いかけられるのでしょうか(28節)。
人生の不条理さに対する問いには深いものがある。しかし、その問いをヨブがするように、神に真摯に問いかけてみたいところではないか。人生諦めてはならないのである。