レビ記1章

レビ記1章 全焼のささげ物
1.全焼のささげ物の種類
今日からレビ記を読んでいきます。レビ記は、出エジプト記を、さらに神学的、実践的に深く解き明かす書であると言えます。神の民は、礼拝する民であり、その日常はどのようなものなのか、当時の人々の文化と生活に即して語り掛けてくるのです。
まず1章には当時よくいけにえとして神にささげられた「全焼のささげもの(=なだめのかおりの火によるささげ物)」について語られます。ささげ物は、経済状況によって豊かな者は牛を、貧しい者は鳥をささげましたが、いずれにせよ、全く傷のないものをささげることが求められました。そして肉食獣は除外され、清い獣や家畜に限定されました。このささげ物は、祭壇の上で、それらを全て焼き尽くし煙にするものです。
2.全焼のささげ物の手順
 そこでモーセが神に語られたささげる手順に注目し、その意味をよく理解する必要があります。まずささげ物の動物は幕屋の入口に引いていかれます(奉納)。次に按手がなされます(4節)。それは、動物の頭の上に手を置く行為ですが、それによってその動物に、私たちに下される神の刑罰の義務が移行したことを意味しました。つまり、その動物は、ささげる者の身代わりになるのです。そして、その動物は屠殺されます(5節)。動物とささげる者は一体なのですから、それはささげる者が神の刑罰を受けたことを意味します。
さらに犠牲動物の血を祭壇の周囲に注ぎかけます(5節)。祭壇は神の臨在の象徴です。そこに血を注ぐというのは、自らの死と贖いを確認する行為です。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」とヘブル人への手紙の著者は語りました(9:22)。神の刑罰の完了を確認するわけです。そして最後に動物は燃やし尽くされます(6-9節)。火は神の怒りの火、焼きつくす火です。そして同時に聖めの火です。動物は、焼き尽くされて、宥めの香りを放ちます。
3.全焼のささげ物の意味
三度繰り返されることばに注目しましょう。「主への食物のささげ物、香ばしい香り」(9、13、17節)がそれです。一般に古代の人々は、神に崇敬の念を示すために食物を提供しました。しかし、神の民が教えられたことは、提供する食物よりも、提供する者の心が重要だということです(詩篇50:8-15)。食物が大事なのではなく、食物に象徴される神への感謝、忠実さ、また信頼が大事なのです。神が受け入れられるのは、食物そのものではなく、食物が象徴するその霊的な意味です。そこに神への全き献身があるかどうかです。
しかしながら、新約聖書が著され、もはやささげ物がささげられなくなった現代に生きる私たちにとって大事なことは、もはや、完全で唯一の主への食物のささげもの、香ばしい香りが、私たちの代わりに既に献げられたことを覚えることでしょう(ヨハネ1:29)。
実際現代の人々は、レビ記に教えられているように全焼のささげ物をささげることはありません。しかし、ここに書かれている真理については理解する必要があるのです。つまり、神への全焼のいけにえは、もはやささげられる必要がないのは、2000年前に、完全な、一度限りの、永遠に有効なささげものがささげられてしまったからです。
使徒パウロは、それを新約聖書のガラテヤ書の中で説明しています。イエスが十字架で死んだのは、身代わりの死であり、神の怒りを受けるものであったと(ガラテヤ2:20)。
また使徒ペテロも、「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる」(1ペテロ2:5)と言いました。神は物をささげられて喜ぶようなお方ではありません。しかし、罪人が神の前に手ぶらで出ることはあり得ないのです。そうであればこそ、2000年前にイエスが成し遂げてくださった十字架の死こそ、自分の身代わりの死であり、救いであることを信じる意義も出てくるわけです。罪人である私はキリストと共に死に、焼き尽くされ、今や聖められたのだ、と信じるところに、新しい人生も開けるのです。
私たち罪人がどれほど献身しようとも、その献身は不完全さを免れ得ないものです。完全な献身は、永遠の御子が罪人の身代わりとなり、ゴルゴダの丘においてご自身を献げた自己犠牲以外にありえません(マタイ26:28)。そしてイエスが十字架におかかりになった時に、私たちもイエスと一体となり、イエスにあって死に、全き献身を神におささげしたのだ、というわけです。今あるいのちは、イエスにある新しいいのち、新しい人生です。だからこそ、使徒パウロは、キリスト者に、自分自身を神に献げて歩むように勧めています(ローマ12:1)。キリストの故に、神に受け入れられた私たちには、神に近づく新しい歩みがあるです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。幕屋が出来て、備品類が設置された時に、幕屋の内部の南側に置かれたものは何でしょうか?答えは燭台です。

では、今日の聖書クイズを一つ。レビ記は、大きく二つに区分されると言いますが、区切りとなる章はどこになるでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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