レビ記22章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日は、祭司が、祭司のために聖別されたものをどう取り扱うか、が語られていますが、それは、私たちが聖別された聖餐にどう与るかに通じる内容を持ちます。また聖別されるべきものは、どうあるのか、についても、私たちの心が探られるところでしょう。主に私たちの魂が引き上げていただけるように。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

22章も続けて祭司に対する戒めであるが、21章で語られたことは、祭司自身が、神のパンを扱うその職務の故に聖さを保つべきことであった。22章では、祭司のために、聖別し、分かち合われたものを慎重に扱う、ということである。著者は言う。「イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である」(2節)。三つの点から、祭司のために聖別されて分け与えられたものを慎重に扱うことが教えられる。
1.聖別されたものを受けるために(22:1-9)
 第一に、祭司の汚れによって、聖なるものを汚すことがあってはいけない、ということである(1-9)。どのような時に祭司は汚れているのか。4節以降、具体的に、神との交わりを断つ種々のケースが語られる。それらはすでにこれまで見てきたものであるが、ツァラアトに冒された場合(13章)、漏出のある場合、精をもらした場合(15章)、そのような場合は、聖別されたものを自由に食べることができない。まして祭司は、自然に死んだものや裂き殺されたものを決して食べてはいけない(17章)と教えられる聖別されたものは聖別された心で受けることが重要なのである。
確かに今日、万人祭司である聖徒が、神の聖別されたものに与ることを具体的に考えると、それは聖餐に与ることを考えさせてくれる。聖餐のパンもぶどう酒も聖別されたものであり、それを受ける時には、私たちは自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲むように勧められている(2コリント11:27-31)。そして聖別されたものに、ふさわしく整えられているというのは、美しくも氷のような聖さに立つことではなく、何よりも自分自身では自分を何一つ聖めえず、ただ、イエスの十字架にある罪の赦しを切に祈り、イエスの罪の赦しを心に受ける他なし、とイエスと共に神の前に立つ心を持つことである。聖別されたものを受けるに必要なのは、主に聖別していただくことである。
2.聖別されたものを受ける範囲(22:10-16)
 第二に、聖なるものを分かち合う範囲を間違えることによって、聖なるものを汚してはならない、と語られる(10-16)。祭司は、聖なるささげものを食べることができた。祭司の家族もそれに与ることができた。しかし、祭司の同居人にはそれができなかった。祭司の娘が家を出たなら食べてはならない。しかし、離婚されて子どももなく家に戻ることになれば、それは問題がない。これは、今日で言えば聖餐の範囲について語っていると考えることができる。聖餐の意味は、罪の赦しの確証、神の愛の確認であるとすれば、神の愛をまだ知らない者、神の愛を認めて、イエスの十字架にある罪の赦しを受け入れる告白をしていない者は、これに与ることは難しいということだろう。それらは聖別された者であり、キリストにある罪の赦しを受け、新生し、神の子とされた者らが受けるにふさわしいものである。聖餐はキリスト者のみの特権である。そのようなものとして聖餐の時を過ごさねばならない。
興味深いことは、あやまって食べた時に、その償いの方法が教えられていることだ。あやまって食べてはいけないのであるが、それで終わりではない。神の法則は常に愛に基づく。聖であることを語りながら、それが愛によって実行されることを語っている。
3.聖別されるべきささげ物(22:17-33)
 最後に、聖別されるべきささげ物について語られる。それらは、欠けのあるものであってはいけない、という。私たちは神に対して最善のものをささげなくてはならない。神は私たちに、ご自身の最愛の御子イエス・キリストをささげてくださったことを忘れてはならない。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです(2コリント8:9)。」
とパウロは語ったが、神は私たちに最善をなしてくださっているのに、私たちは、あまりもの、二の次のものをささげている、ことがあるだろう。
献金の原則は喜んでささげられるものをささげることである。それは心を見られる神の前に、嫌々ながらささげてもしょうがないからである。しかし、喜んでというのは楽にということではない。この程度だったら楽にささげられるというものではない。それは、時間のささげ方にしても同じである。今は余裕がないから、と個人で祈る祈りの時間も、礼拝に出席する時も後回しにしてしまう、これがまさに自己流の自己肥大の信仰生活なので会って、このように神を二の次にする人生は、神に最善のものをささげて生きていることにはならない。神に最善のものをささげて生きることには、神の国と義を第一にする人生である。それは、栄光の主を認め、そのために心遣いをし、よくよく選び抜かれたもの準備されたものをおささげしていくことを意味する。
 なお、犠牲動物の母親とその子を同じ日に殺してはならないという定めは、むやみな残酷行為を禁止する(28節)。たとえ犠牲に供せられる下等動物であれそこに愛情を忘れない。それが神の民としての法である。神にささげることにおいて、最善を尽くす、そして愛情を忘れない。大切な原則である。それによって、人々は神がどのような方であるかを理解するからである。理性的にはわかっても、何か違う、人を認めていないと思うようなあり方は、違うのである。わたしたちがいかにささげるか、それ自体が、神の栄光を人々に示すことになる。

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