レビ記21章

レビ記21章 祭司の聖別
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。キリスト者は聖であることを求められても、聖別するのは主であることを覚えなくてはなりません。自ら聖さを意識するあまりに神の与えられる聖さとおおよそ違う、自己満足的な聖に陥ってはならないのでしょう。主の聖さに与る生涯へと導かれたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.祭司の定め
これまでは、一般的にイスラエルの民が、神の民として、個人生活においても共同体生活においても聖でなければならない、と語られてきた。ここでは、祭司の場合、なぜ彼らが聖でなければならないか、が語られる。それは、祭司の主要な職務が、主への食物のささげもの、神のパンを献げることにあるからだ(6節)。その理由は、繰り返されている(8節、21節)。神の前に出て、民のとりなしをするのであるから、その働きのゆえに、聖でなければならない、身を汚してはならない、という。
「主への食物のささげ物、香ばしい香り」(9、13、17節)については、すでに2章で解説したが、古代においては、神に崇敬の念を示すために、ささげ物において神に食物が提供されるという考え方があった。しかしイスラエルにおける主への食物は、そのような物質的な意味ではない(詩篇50:8-15)。あくまでもささげ物に象徴される霊的な意味こそが大事にされた。つまりささげ物を携える者の感謝の気持ち、信頼、献身、神への愛が、神に受け入れられる、神にとって香しいささげ物なのである。
ところで、21章、22章と呼んでいくと、繰りかえされるフレーズがあることに気づかされる。「聖別する主である」ということばであるが、8節、15節、23節、そして明日読む、次章22章の9節、16節、32節に6回出て来る。それが一つの意味段落を導いている。だから1-9節は、祭司の葬儀と結婚について、10-15節は大祭司の場合、16-24節は、祭司の身体的条件となる。
1.祭司の慶弔事(21:1-9)
そこで、祭司が弔事に関わる場合、まず死人と接触してはならないとされる(1-6)。というのも、死は罪の罰として人を汚すからである(民数19:11-13)。父、母、息子、娘、姉妹の場合は例外とされるが、妻の場合については何も言われていない。それは妻が、近親の者というよりも、一体の者という特殊な立場にあるためなのだろう。「頭をそってはならない、ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。」(5節)とある。旧約外典『エレミヤの手紙』(6:31)に、死を悲しむ異教の祭司の行為として描かれているが、そうした異教の習慣を真似てはいけない、とされる。
次に、祭司の祝い事、結婚についてであるが、祭司が結婚する場合は、貞淑な女性、離婚されたことのない女性でなければならない、とされる(7-8節)。その理由は、祭司が聖なる職務を務めるからであると二度繰り返されている。
2.大祭司について(10-15節)
10節からは、祭司は祭司でも、大祭司についての定めである。大祭司については、先に述べた祭司の定めよりもさらに厳しいものである。まず、大祭司は、人の死に際して、「髪の毛を乱したり、装束を引き裂いたりしてはいけない(10節)」つまり、悲しみの感情を外に出してはいけない、と戒められる。聖所から出て行ってはならない、という命令も(12節)死人に関連したものであり、死人に敬意を払おうとして聖所を離れてはいけない、ということである。つまり、総じてどのような死に接しても、その死に感情的にのめり込むことは許されなかった。また結婚に際しては、同民族の処女とでなければ結婚できないと制限が加えられる。
3.祭司の身体的条件(21:16-24)
17節以降、犠牲動物が無傷のものでなければならないのと同様に、それをささげる祭司も身に欠陥があってはならない、とされる。身体的欠陥とは、目や足が不自由であること、手足の長さに不釣り合いがある者、骨折した結果外観が正常ではない者、せむし、肺病などである。ユダヤ教では、サンヘドリンの議会が、祭司を検査し、任職後も定期的に検査を実施したという。ただ、このような人たちは、祭壇に仕えることはできなかったが、その聖なるいけにえの肉にあずかることは可能だとされた(レビ2:3、10)。彼らは神との交わりから排斥されるわけではない。特定の職務、祭司職には立つことができないとされる。これらは、一般の人には関係のないことであったが、民もこれらを理解して祭司を聖く保つ務めがあり、さらに祭司の資格審査には長老が加わる必要もあったので、すべてのイスラエル人にこうして、祭司の資格が告げられる結果になったのだろう。
後の時代、これらは、文字通りに厳格に守られたようである。実際イエスは、良きサマリヤ人への譬えの中で(ルカ10:31)、祭司とレビ人が、瀕死の人を見ながら、助けようとせず、道の反対側を通り過ぎて行ったことを語っている。しかし、イエスは、それを是としたわけではなく、むしろ、神の愛、憐れみ深さを実行していない人の例として語っている。となれば、これをどう読むべきなのか。私たちの模範、私たちへの主の期待として読むには、あまりにもハードルが高いばかりか、その実行は、人間性を失わせる、と思わされるところではないか。確かにイエスは、あわれみを犠牲にしてまで聖さを保つことには意義を唱えていた。大切なのは、繰り返される鍵語「あなたがたを聖別する主」ということばだろう。人間を聖別し、人間に聖さを与えるのは主であり、人間ではない。人間はどうしても杓子定規にルールを守り、自分の聖さを作り出そうとするものだろう。しかし、人間が自分の努力で生み出す聖は、せいぜい、あわれみを犠牲にした聖さであり、美しくも氷のように冷え切った聖さなのである。人間は悩むがゆえに人間なのであり、聖さと愛のバランスの中で悩みながら、愛に基づいて行動し、神に聖を着せていただく者ではないだろうか。そういう意味では、神のパンをささげるための完全な祭司、大祭司は、歴史上イエスを置いて他に存在したためしはなく、この方に、21章で要求されている完全な聖が実現されていたのだ、と読むべきなのだろう。つまりレビ記21章は律法的に読むのではなく、予型として、約束の救い主イエスにおいて実現し、イエスの十字架の故に実現している祭司としての条件である、と読んでいくのである。そして、今日万人祭司と言われる私たちも、神のパンをささげる、つまりとりなし手としての働きがあるのだから、当然、この箇所における聖さを追求するように求められているのであるが、神の期待に副おうとしても副いきれない、あるいは全く副っていない現実を覚えながら、しかしそのような弱く欠陥だらけの私たちをも、イエスの十字架にある罪の赦しをもって聖を着せてくださる、聖別してくださっている、ことを覚えて歩ませていただきたいものである。

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