レビ記20章

20章 主の掟と定め(異文化との分離)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日の箇所は、18,19章の繰り返しでありながら、罰則が加えられているのが特徴です。それだけ、神の律法に生きることが徹底されている、というべきでしょう。しかしそれは、神の民としての新しい歩みの目標を示すだけではなく、そのような歩みを導かれる生ける素晴らしい神がおられることを証することに力点があるのです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.偶像崇拝に対する罰則(20:1-8)
モレク礼拝や種々の性的な罪については、すでに18章にて、また霊媒についてはすでに19章に取り上げられている。どうも、この20章は繰り返しのようにも思われるが、よく読むと、戒めのみならず厳しい罰則を加えているのが特徴である。つまり、20章は、18,19章で取り上げられた聖い行動について、規定が破られた場合の罰則を語るものである。というのも他の近東諸国では当たり前のようにされていた事柄もイスラエル人には罪深い行為であることを示し、聖さを教えようとしたためであろう。
 モレクは、アモリ人の神であり、子どもや幼児を犠牲として偶像にささげ、生きたままに焼き殺す恐るべき慣行であった。このような嘆かわしい罪は、石打に値するという。その刑を執行するのは「この国の人々」である。これが一体何を意味するのか、刑を実際に執行する「立法上の議会」、影響力を持った集団、土着住民など、種々の説がある。ともあれ、このような行為を知りながら目をつぶり、黙認することも、神は許されない(1-5節)。
 また霊媒や口寄せ、いわゆるイスラエルの民が住まう近隣の国民が未来をうらなう方法を真似る者も同様の処罰を受ける(6-8、27節)。こうして、個人として、共同体として聖くあらねばならぬことが繰り返される。だからキリスト者になることは、この世の習慣にどっぷり浸りなんとも思わずにいる自分の現実に気づくことから始まると言える。知らず知らずに、世の中の慣行が当たり前だと思って歩んでいるものである。日本人には日本人の文化があり、異文化に接触して初めて、自分の行動が、必ずしも当たり前ではないことに気づかされたりするようなものであるが、キリスト者として成長しようと思うなら、聖書の文化をよく理解しなくてはいけない。聖書の文化に自分自身を研ぎ澄ます思いがなかったら、なかなか信仰は深められない
2.性的な罪への罰則(20:9-27)
父や母をのろう者(9節)、近親姦、同性の性的交渉、獣姦、という種々の性的な罪も、必ず殺されなければならないと厳罰が宣告されている(10-21節)。近親姦については、すでに18:6-23禁じられている。しかしここでは、その罰が述べられている。こうした戒めが語られる背景は、一つは異邦人の慣例があったのみならず、ユダヤ人の結婚が近親関係として近い人との間で結ばれるのが一般的であったため、血縁として受容できる範囲を明確にする必要があった、と考えられている。
 ともあれ戒められるだけではない、厳罰が下される、その根拠が、「わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中からえり分けたのである」(26節)ということなのだろう。しかも、「わたしはあなたがたを聖なる者とする主である」(8節)と語られている点が重要であろうかと思う。
 つまり、イスラエルは、選ばれ、約束の地カナンへと向かっていた。彼らはその約束の地において、固有の道徳的、霊的な聖さを持つ生活を営むことを期待された。それは聖いまことの神を証しするためであった。だから、神の民として、神を適切に礼拝する方法が教えられ、また聖なる生活に生きる方法が教えられた。これはキリスト者もまた同じである。キリスト者もまた生き方において聖なるものであり(1ペテロ1:14-15)、肉の働きを避け(ガラテヤ5:19-21)、神に従い、神の栄光を表すことが期待される。
 こうしてレビ記は私たちにとって一つの型を提示する。私たちも、約束の地、天の都に与るべき選び出された民であり、その地にふさわしい、固有の道徳的、霊的な聖さをもって日々歩んでいる者である。しかもそうするのは、私たちの自己満足のためではなく、証しのためである。私たちを通して、神の栄光の素晴らしさが証しされて、共に天へと向かう人々を巻き込んでいくためなのだ。
 神の掟と定めは行動のための指針である。違反の可能性を持つ者へ警告を与えられる。さらに神はただ単に、掟と定めを与えられるお方ではない。それらに沿って生きることができるように、力を与えられるお方である。神は聖を望まれるだけのお方ではない。私たちを実際に聖なる者としてくださるお方である。パウロは言う。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)そういう意味では、キリスト教信仰というのは、単に倫理道徳的な人生を生きるように教える宗教なのではなく、神がそのように歩む力を与えてくださるし、そのように恵みをもって歩ませてくださる生ける神がおられることを世に証ししていくものである。今日も、神が備えてくださる歩みを進めさせていただきたいものである。

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