人生100倍の祝福😊 士師記20章 災いが迫っているのに気づかなかった

20章 ギブアに対する聖絶

1.レビ人の招集

レビ人の招集に、イスラエルの全部族、民全体のかしらたち、40万の剣を使う歩兵が集まってきました。「ダンからベエルシェバまで」というのは、聖書固有の言い回しで、イスラエル全土を意味します。彼らは、ギブアの者たちを立ち滅ぼし、イスラエルから悪を除き去ろうと試みました。イスラエルの良心はまだまだ捨てたものではない、ということのようにも思えますが、そうでもなさそうです。というのは、既に述べたように、レビ人のリーダーシップそれ自体が健全なものではありませんでしたし、この問題に感情的になって一つになり応答したイスラエルの民のその後の問題解決を見るにつけても、理解しがたいものがあります。まさに、全国民一丸となって戦い、最後には華々しく崩れていった日本の戦争時代を思い起こせる出来事です。皆が団結することが必ずしも正しいとは限らず、また神の御旨に適うというわけでもない、ということです。

2.神の御心を伺う

また13節、彼らは戦闘を開始する前に、まずよこしまな者を引き渡すように交渉しましたが、ベニヤミン族は、これに応じませんでした。むしろ、2万6千人を招集し、戦おうとしたのです。なんと、悪者を庇おうというのか、不思議なものです。けれどもこれは教会ですら例外ではないのです。実際新約聖書の中で、使徒パウロがコリントの教会に生じていた悪を除き去るように勧めた時に、コリントの教会は素直に聞き従いませんでした。彼らはパウロに抵抗し、仲たがいすらしています。主の教会だからと言って、物事が理屈通りに動くとは限りません。

またイスラエルの人たちは、神の御旨を聞き、ギブアに攻め上っていますが、これは必ずしも、イスラエルが信仰的で、ギブアの人たちがそうではなかったという対比にはなりません。神とイスラエルの人たちの不可解な三回のやり取りを皆さんはどう思われるでしょう。イスラエルの人たちは、神の御心を問い、それに沿って、戦い、けれども負けている。2度も。そして三度目の正直で勝っているのです。神の御心を問いながら物事を進め大敗を帰すとは、なんとも不可解です。ただ、彼らの神に向かう態度に、明らかに変化があることは確かです。三度目、彼らは主の前に泣くだけではないので、彼らは断食をし、ささげ物をささげているのです。つまり、神と共に戦う姿勢すら忘れていた彼らが、こうして神と共に出ていくことを学んだというべきではないでしょうか。そして何よりも大切なのは、このようにいい加減な信仰のイスラエルにも関わらず、神のあわれみは深く、神は決してともにいることを恥とされなかったこと、むしろ助けられたとこの箇所を読むことです。

3.イスラエルの戦い

イスラエルのベニヤミン族に対する戦い方について言えば、それは、招集から始まり、神の民の集会、誓約、神の導きを求めること、敗戦の際のささげ物や勝利の約束、聖絶、会衆の解散など、完全に「主の戦い」の形式にのっとっています。堕ちるところまで堕ちながらも、イスラエルの中には、神に従う形式は、どこかDNAとして受け継がれており、彼らはそれを思い起こしながら物事を進めているのです。神はかろうじて神の意思を確認するところに立ち返った民を用いられ、助けられたと言うべきでしょう。神の導きも、神の力も見えにくい現代は、士師の時代のようなものなのかもしれません。しかし、そうであればこそ、新しいサムエルの時代をいよいよ待ち望み、主の教会の形式を本質に近づける努力も必要とされることでしょう。ただ、形式を繰り返すのではなく、信仰の本質を深く掘り下げ、その信仰の本質に立つ歩みをさせていただきたいものです。

 

 

<クイズコーナー>

最初に、昨日のクイズです。ギブアが首都とされたのは、どの王様の時代であったでしょうか?答えはサウルでした(1サムエル13-15章)では、今日の聖書クイズを一つ、ミツパは「見張る場所」「物見やぐら」の意味がありますが、そもそも、どんなエピソードによってつけられた名でしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

 

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