伝道者の書9章

9章 人生をよく観察する

おはようございます。伝道者の書の世界観、人生観と、パウロが語るような新約聖書の世界観、人生観の開きがよく見えてくる箇所です。その根本に、神観があるのでしょう。十字架愛を中心に据えた神を知っているか否かは大きな違いです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の御手の中にある

「正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある」(1節)伝道者の要約的な言葉である。これは、人が神の保護の中にあることを言っていない。神は及び難い崇高な存在でありながら、地上の人間の間に起こる出来事に決定的に介入される、方であると言う。パウロのような「神は、すべてのことを働かせて益としてくださる」、という神の愛に対する信頼は、語られていない。むしろ、人間は、善を行おうが、悪を行おうが、自分の人生をそれによって変えることはできない、という現実をシビアに見ている。そして、人は死んで終わりなのであって(3節)、死後に望みがあるわけでもない(5節)、とキリスト以前の人生観を明確にしている。だから「生きている犬は、死んだ獅子にまさる」と結論するのであるし、人生を四つの事柄で楽しむようにと勧める。つまり、よい食事の時を持つ(7節)。よい安息の時を持つ(8節)。ユダヤ人は、普通安息日に白い衣を着る習慣があった。そして、愛する妻との生活を楽しむ(9節)、人生のチャンスを生かす(10節)ことである。死後に、「わざも道理も知識も知恵もない」(10節)と明言するところに、新約聖書のキリスト教世界観とは異なる、死後理解がある。新約聖書によれば、人間の行く先は、暗い死者の国ではなく、キリストにある神の国であり、もはや、そこには「死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」慰めと喜びの場である(黙示録21:4)。不条理な人生を忠実に生き抜いてきた者に対して「よくやった、多くのものを与えよう」と心からの愛情をもって迎えてくださる十字架のキリストがおられるところである(マタイ25:21)。

2.人生をよく理解しよう

伝道者の冷静な観察が続く。成功は、才能や知恵によらない。神の気まぐれな配分にかかっている、と。どんなに足の速い者であっても、必ず勝利できるとは限らない。強い兵士も絶対勝つわけでもない。知恵ある人が、金儲けにたけているわけでもない(11節)。つまり、常識的に考えて当然と思われることが、実際にはそうはならない。「時と機会に出会う」つまりすべて予測しがたい力によって物事が決まってしまうのだ。万事は運命というべきもの、信仰者であれば神にかかっている、と言えるだろう。だが、伝道者の神は、崇高な権威者であって、十字架のキリストではない。だから、包囲されたある町についてのエピソード(13-18節)を語ることで再び無機質な人生の矛盾をついてくる。知恵が力に優るとは誰もが思うことだ。しかし、人は語る者の社会的地位や外観によってその知恵を評価する愚かさを持つ。社会的偏見という人の愚かさによって知恵も役立たずである。実際のところ人間社会はそのようなことで溢れている。正義の神がいたとしても、その神と心を通じ合うこともなければ、人間に希望はない、というべきだろう(つづく)。

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