創世記44章

44章 ユダの悔い改め
1.見つけられた銀の盃(44:1-13)
ヨセフの歓待に、すっかり気を許し、兄弟たちは帰り支度を始めました。故郷では父が待ちわびていました。早く食料を運ばねばなりませんでした。そこでヨセフが、家の管理者に銀の杯をベニヤミンの袋に忍ばせるように命じたのです。おそらく、弟ベニヤミンを側に置いておきたい、という気持ちがそうさせたのでしょう。しかしこの行為が、兄弟たちに心を開かず、自分の正体を明かさず、ただ自分の思いのままに生きようとするヨセフに思わぬ結果をもたらすのです。
ヨセフの計略通り、ベニヤミンは盗みの疑いで捕まえられました。ヤコブの不安的中というわけです。彼は、エジプトに連行されることになったのです。そこで昨日も見たように、ユダが登場します。ユダが、ベニヤミンを取り返すべくヨセフに懇願するのです。かつては自分の兄弟を、血も涙もなく、エジプトに売り飛ばしたユダ(37:26、27)でしたが、今や彼は捨て身になってベニヤミンを守ろうとしました。そこには、変えられたユダの姿がありました。何がそのようにユダを変えたのか。聖書は明らかにしていませんが、彼は人の悲しみを理解し、人の心を思いやり守ろうとする者に成長していたのです。そして彼は父ヤコブとの約束を守ろうとしました。
後にヤコブは、ユダを祝福して語りました。「ユダは獅子の子。・・・王権はユダを離れず、王笏は、その足の間を離れない」(49:9、10)ユダが12部族の中で、リーダーシップを発揮し、王権を握る、それはダビデに受け継がれ、メシヤ待望へとつながる、未来を語る預言的なことばです。救済史のバトンは、長子のルベンでも、エジプトの大臣となったセフでもなく、血も涙もない過ちを犯したものの、その後、罪を悔い改め、父のいのちを救おうとしたユダへと受け継がれていくのです。興味深いところです。ヨセフは意図せずにして家族一致のきっかけを作りましたが、これまた意図せず一致に向かう努力をしたのはユダでした。
2.ユダの懇願(44:14-33) 
ユダのヨセフに対する訴えは感動的です。言葉を飾らず、率直に淡々と訴えています。ヨセフを殺そうと提案したのが次男のシメオンだとすれば、実際にヨセフをエジプトの奴隷に売りつけたのは四男のユダでした。長男のルベンがそれを知って、そんなことは止めさせようと努力しています。けれども、長男のあずかり知らぬところで、ヨセフは売られてしまったのでした。人をイライラさせるヨセフがいなくなることなど、彼らにとってはそれほど問題ではなかったのです。しかし、彼らは、次の瞬間、父親のあまりにも激しい嘆きに直面し、良心を覚まされるのです。そして切り裂かれ、羊の血で汚した長服を差し出す行為が、あまりにも稚拙で、思慮のない行為であることを思い知らされたというべきでしょう。実際、その時から父親の心が狂っていく、そんな姿を見て、兄弟たちは自分たちのしでかした過ちの大きさを、日増しに感じぜざる得なかったのではないかと思います。そして奴隷商人に売り飛ばしたユダが、殺そうと語ったシメオン以上に悪者になっていくのです。家族の歯車も大きく逆回転し、それまでも、あまり安定してはいなかった家族の亀裂が、大きくなって、居心地の悪い、最悪の家庭と化していたのではないでしょうか。実際、この事件の後ユダは、家族から離れて暮らすようになるのです。ヨセフを思い、悲しみに沈んでいる父親を見ていられない、お前が奴隷に売れと言ったではないか、という兄弟たちの無言の圧力に耐えられない、そんな関係から離れたい、と家を出た、それは考えられることです。つまりユダもこの10数年というもの、本当に心責められる人生を歩まされたと思われます。つまりユダのヨセフに対する懇願は、口先ではなくて、自らの人生の深い傷とそれを癒す努力の中から出てきたものなのです。そんな人間としてのありのままの姿に、ヨセフも、自らの心のうちに張り詰めていたものが崩れていくものを感じたのでしょう。人の苦しみが意味をもたらすのはこんな時であるように思います。苦しみはそれ自体喜ばしいものではないし、生産性もなく、無為な時のように思われるものです。しかしそれは、確実に魂を練り上げています。そして同じように練られた魂には、それを感じる力が生じるのです。人がありのままに触れ合う、これに勝る祝福はありません。そのような意味では、無意味、無駄と思えるようなことも、厭わずに、淡々とこなして生きることも人生の知恵であると心得たいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「ヤコブが贈り物として子どもたちに持たせた「蜜」は何の蜜と考えられているでしょうか?」答えは果蜜でした。エジプトでは蜂蜜がよく取れるので、ヤコブが持たせた蜜は、果汁を煮詰めて作った果蜜と考えられている。また、蜜と訳されたヘブル語のデバシュは後にはアラビヤ人がディブスと呼んでいる果蜜をも指すようになったからです。では、今日の聖書クイズを一つ、「よみ」と訳されたことばは、ヘブル語でシェオール、ギリシア語ではなんと呼ぶでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!