民数記5章

5章 宿営地の聖さを保つ

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。5章からまた新たな主題に入ります。1-4章は、戦力、奉仕力というイスラエル民族の量的な面について語っていました。5-10章は、イスラエルの質的な面、聖い神と共に生きるに相応しい、聖さ、誠実さが、あるべきことが語られて行きます。教会は宣教の使命の共有のみならず、価値の共有の場でもあります。十字架愛にしっかりと立った歩みができるように。今日も、皆さんの上に主の平安があるように

1-4章までは、戦力といい、奉仕力といい、イスラエル民族の量的な事柄であった。5-10章は、またイスラエル民族を別の角度から整えようとしている。いわば質的な面であり、「わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。」(3節)とあるように、イスラエルは、共におられる主に相応しい価値観を共有する共同体であることを求められたのである。それは教会も同じである。教会も聖なる主の臨在に相応しい価値観を共有する者たちの集まりなのである。そこで宿営地のきよめ(5:1-4)、汚れを取り除く方法(5:5-10)、嫉妬に対する対応(5:11-31)が述べられていく。
1.宿営地のきよめ(5:1-4)
 まず注目すべきは「汚れ」という考え方である。汚れはよごれと関係するが、単なるよごれ以上の意味があり、それはレビ記11-15章に詳しく説明されている。2節には、三種類の汚れた人について語られている。ツァラアトの者、漏出を病む者、死者に触れた者である。ツァラアトは既に述べたように、従来は、らい病と訳された悪性の皮膚病である(レビ記13章)。漏出というのは、性器からの分泌物を指しており(レビ15章)長期間にわたるものを意味している。死は、いのちの神とは正反対なものであり、最も汚れたものという意味なのだろう(レビ記21章)。イスラエルの宿営に住む者は皆、こうしたものに触れて宿営を汚してはならない、と教えられた。これが、イスラエルの祝福の基本であった。これは、約束の天においてもそうなのであって、ヨハネは言う。「すべて汚れた者は、…決して都に入れない」(黙示録21:27)神が宿営のただ中に住んでおられたが故に、汚れた者は宿営の中に、また天の御国の中に入ることは許されないのである。
2.汚れを除く方法(5:5-10)
 しかし、当時示された「汚れを除く」という価値観は、さらに優れた「十字架愛」という価値の共有を、イエスに教えられることによって新たな発展性を持たせられているのが、今の時代である。5節、ついで主はモーセに告げて仰せられた、と、罪の贖いの方法、否汚れからのきよめの方法が語られる。罪の告白と罪過のための弁償をする、これが基本である。この基本に基づいて、イエス・キリストによる十字架の贖いが2000年前に実行された。イエス・キリストは、私たちのすべての罪や汚れを負って、宿営の外に追い出されたのであった。私たちは、イエスの十字架にある罪の赦しと聖めによって、神の臨在に与り、神の恵みの御座に近づくことを許されている。だから、私たちが求められているのは、7節、イエスにあって罪を認め、告白し、償い、赦しをいただく、という、日々の新しい歩みである。自分が汚れているというので、教会の共同体から自分を締め出す、というのではなく、あるいは、禊をしたり、犠牲動物をささげるのでもなく、イエスが私たちのためにしてくださったことを自分のためであると認め、素直に信頼し、そして神の聖めの中に入れられていることを信じて、主の集会に集うことである。
そういう意味で聖餐は私たちのそのような遜りの思いを支えるものである。聖餐によって、私たちは公に、罪を告白し、赦しをいただく時を持つからだ。この聖餐の時に、自分を振り返り、自分の罪を認め、告白し、神に新しく生きる決断をするからである。そして、この恵み与らずして、つまり汚れたままでやがて来る神の御国に入ることもできない、となるのである。
3.共同体において守られるべきこと(5:11-31)
 11節からは、不貞に関する非常に奇妙な鑑定法が語られている。結婚関係において隠し事をしていることが疑われる時に、祭司はのろいをもたらす水を女性に飲ませて、その不真実を明らかにする。要するに何かが疑われて、証明できないことについて、どのようにその罪を認めて行くか。現代では、さしずめ、嘘発見器や拷問といった手段をとるところだろう。確かに、不貞に対する疑いは夫婦の関係を取り返しのつかないほどに冷却させ、家庭を破壊させるものであるから、これは一刻もはやく取り除かなくてはいけない。その発見方法が、のろいをもたらす水を飲ませることになるのである。
不貞が事実であれば、のろいのもたらす水はその女の中にはいって苦くなり、腹はふくれ、ももはやせ衰える。一方不貞が事実でなければ、女は害を受けずに、子を宿すようになるとされる。奇妙で原始的かつ神がかり的なこの方法をどう理解するべきか。医学的にもそれはどう理解されるのか、確定的な説はない。ただし、これは出エジプトの特殊な時代を考えて理解すべきことなのだろう。イスラエルの民が、自分の持ち家を持たず荒野で宿営の生活を送っていたこと、また、イスラエルの歴史には、奇跡が集中した時代が三つあったこと。この出エジプトの時代、エリヤの時代、そしてイエスの時代がそうであるように、この時代は、神の奇跡的な介入のあった時代であった。そのような状況で、この特殊な鑑定法が用いられ、それが実際に効力を発揮した、ということなのだろう。
 ただより大切なのは、このような戒めが与えられることにより、神は、結婚関係における誠実さ、真実さ、強いては、個々の家庭の聖さを求めていることである。罰するよりも守られるべきものがある。罪の償いが教えられるのは守られるべきものがあるからだ。守るべきものを覚えて歩ませていただこう。

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