**ネパールの山奥に滞在していたため、更新が遅れました。申し訳ありませんでした。今後もよろしくお願いいたします。
申命記24章 弱者への配慮
皆さんおはようございます。今日はいくつかの種々の教えが述べられています。教えられるのは、信仰というのは、個人的な信仰の精進以上のものである、ということでしょう。ただ祈りに熱心であればよい、礼拝に参加し、奉仕を忠実に行うという以上のものです。
それはまさに愛の人間関係に生きることであり、神の愛に生きて他者に配慮をもって、人間関係を豊かにする人生です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
24章で語られる種々の定めは、愛の原則に基づいた弱者への配慮と考えることができる。
16)弱者への配慮
(1)離縁された女性に配慮する社会(1-4)
まず、夫と妻の関係について、離婚に関する問題がとりあげられる(1-4)。つまり離婚後の再婚について語っている。1節の「恥」と訳された語は「裸」「不名誉な行為」「無作法な言動」と幅広い意味がある。そこで「何か恥ずべき事」を不貞(マタイ19:9)と理解するか、それとも、身体的な欠陥から性格上の問題までを含めた何かと幅広く捉えるか、議論が分かれるところである。原因をいずれにするにせよ、夫婦関係が破綻したなら、その根拠と妻に対する離婚状の提出という二重の制限を加えて去らせよ、とする。しかしこれは夫の離縁権を主張するものではなかった。
また、その女性が再婚して再び離縁された、あるいは、再婚相手が死亡して寡婦となった場合、前の夫が復縁することは許されない。というのも一度、自分にとって不名誉と感じて、妻として失格の烙印を押した女性を取り戻すのは、男の身勝手であり、思慮のない行為である。離婚の理由も様々であろうが、しばしば男の身勝手、男の思慮のなさによる離婚もあって、その場合には、後で女性の価値を見いだしても、終わりであるし、弱者の立場にある女性をそのように横暴に扱ってはならない、というのがこの戒めの主旨である。この戒めは、弱者になりがちな妻の名誉を守っているのだ。
(2)家庭の重要性を認め新婚家庭に配慮する社会(5)
新妻をめとった者は、1年間は家にいてその祝福を喜び、子をもうけ、家系を絶やさないように配慮されるようにと定められている。二つの理由がある。子孫の繁栄、そして、共同生活の最初で最小の単位である形を大切にすることである。人間を大切にする、というのは、このような神様にある人間主義、人道主義なのだろう。人間を無視した全体主義ではいけない。
(3)困窮者に配慮する社会(6)
ひき臼や上衣を質に入れるのは原始社会では貧困のしるしである。経済的に困窮している者から、ひき臼を質に取るのは生存を脅かす行為だ。ひき臼は上下二個の円盤状の石からなり、上石を回して穀粒を引き砕き、粉にする。ひき臼は、家族のための日毎の食物を作るのに、必要不可欠な家庭用品で、毎朝女たちがひき臼を回して穀粒をひき、その日のパンのための粉を得た。ひき臼を取られることは、家族が食べることができなくなることを意味した。借り手の必要と感情を顧慮しなくてはならない。
(4)正しい雇用に配慮する社会(7節)
当時の「奴隷」は、ある意味での現在の雇用関係に通じる(15:1-23)。奴隷の主人は適切な世話をし、その必要を満たしていく義務を持っていた。ここでは「人をさらっていく」「人を奪っていく」ということが問題とされる。つまり正しい雇用をせず、それを売って、暴利を得る者は死刑に処せられるのであり、こうして神の民の社会の中からは悪い雇用を除去することが求められた。。
(5)裁かれた者や祭司に配慮する社会(8-9節)
またツァラートの問題について言えば、ここで強調されることはミリヤムの事件で、すべてレビ人の祭司が教えるとおり、つまり祭司の言うことを尊重して神の命令に従うことにある(レビ13、14章)。これは、祭司、また牧師が弱者になることへの配慮である。実際、神の民に聖書を語り伝えることが、軽んぜられ、拒否されることがあるす。それは、ひき臼を質に取るのと同じであり、誘拐者が暴力をふるうのと変わらない。
(6)借主に対して配慮する社会(10-13節)
雇い人に対する賃金支払いについての規定(14-15)。今着ている着物を担保にするしかない貧しい人には、日没には、その担保とした着物を必ず返さなければならいとする。また担保を取る際に(10-13)、貸主は外に立って、待っているべきであるとされる(10-11)。自分の強い立場を誇示するかのように、土足で人の家に上がり込むようなことはしてはならない。
(7)困窮している者に対して配慮する社会(14-15節)。
また、在留異国人でも同胞でも、貧しく困窮している者への賃金の支払いを引き延ばすことがあってはならない。エジプトで奴隷状態であったことを忘れてはならないのであり、虐げと搾取の苦しみを思い起こせと言う。
(8)連帯責任に対する配慮を持つ社会(16節)
一人の罪のために家族が連座して死刑にされる、これは、古代オリエントの習慣で、イスラエルでは禁止された。人が罰せられるのは、あくまでも自分の罪のためである。
(9)在留異国人、みなしご、やもめに配慮する社会(17ー22)
また、農作業において、在留異国人や、みなしご、やもめ、いわゆる社会的弱者の生活のすべを確保し、配慮するように、と教えられる。
実に、これらの教えは昔のものとして読み過ごせないものがある。大切なのは、すでにこれまでの章においてイスラエルの民は、神を礼拝することを教えられた。しかし、神を礼拝する民であることは、ただ、教会に通っていればよい、伝道していればよい、といった宗教的なことへの傾倒のあり方を戒めるのである。神を礼拝する者は、社会的弱者への関心を持ち、社会的な公正を守り、配慮を実践する民でもある。信仰は、個人的に信仰を精進するだけの人生を送ることではない。それは、人間関係の中に生き、その人間関係を豊かにするものである。自分のことだけではなく、自分の周囲に対する配慮を大事にするものである。
私たちは、しばしば、弱者への配慮を欠いてしまうことがあり、自分が強者の立場にあることを当然のことにように思い、あるいはそのような横柄さに気づく感覚の鋭さもなく、弱者を蹂躙してしまうことがあるものだ。しかし神は、そのような横暴を許さず、むしろ、愛の配慮を期待されている。