26章 愚か者と怠け者、困った人たち
おはようございます。新型コロナの問題は、長期戦になりそうです。慌てず、なすべきことをなすまででしょう。今日も、まず聖書の言葉によって心を引き締め、物事の原則を弁えて、いきたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.愚か者と怠け者
偏見で人を見るのはよくないことのように思われるが、「愚か者」を区別することは大事である。1-12節は、愚か者について語る。彼には、似合わないものがある。名誉(1節)、信用(6-7節)、要職(8節)である。彼を教育することは実に難しい。打ち叩いて教える他はない(3節)。議論が通じないからである(4節)。その愚かさは決して取り除くことはできない(11節)。だが、愚か者に輪をかけて始末の悪いのは「己惚れ屋」である(12節)。自己満足の強い人は、矯正不可能である。それ以上の進歩はない。愚か者とどうしても関わることがあったら、時と場に合わせて対処し、愚かさに巻き込まれないことである(5節)。
次に「怠け者」も要注意である(13-16節)。22:13にも同じことばがある。当時獅子はよく町に現れたらしい。つまり怠け者は、それなりの言い訳をして、仕事や責任から逃れようとする(13節)。彼らは面倒くさがり屋なのである(15節)。精神が弛んでいる(14節)。そして、自分を誰よりも知者だと思っているから、手に負えない(16節)。
2.困った人々
第三に、注意すべきその他の人々がいる。いわゆる困った人たちである。自分に関係もないことに口出しをする、おせっかいな人。それは通りすがりの犬の耳を引っ張るのと同じ行為であるが、そんなことを繰り返す人がいる(17節)。また、真顔で嘘を突き通す者、平気で人を騙す者。これも、近づけば大火傷をする(19節)。加えて噂話の好きな人。「人の口に戸は立てられない」もので、噂話は防ぎようがない。このような人間とは距離をおくことだ(20、22節)。また、争い好きな人間がいる。愉快犯のようなもので、人が集まる所には、必ず人と人の間に衝突をもたらそうとするも者がいることを覚えておけ。衝突が興ったら、ひょっとして、と考えることだ。そして、平和な交わりをかき乱したり、無駄な争い事を起こしたりしないように注意することだ(21節)。
口上手な人間には特に注意しよう。「口に蜜あり、腹に剣あり」と言う(23節)。そのような巧言を見抜くだけの思慮深さを持ちたい。愛の接吻で、イエスを売り渡したユダを忘れてはならない(ルカ22:47)。建前と本音は違ったりするものだ。しばしば親しみを込めて近付き、腹には「七つの忌み嫌われるもの」、つまりあらゆる種類の邪悪さを持っている者がいる。上手いことを言われたら、油断しないことである(25節)。それで傷つくのはあなた自身なのだから。ただ、憎しみは、誤魔化し通せるものではない。いずれ明らかになるものだ(26節)。また、ハマンのように、悪を図るものは自分で自分の身を亡ぼす(27節)。うまいことを言われたら、油断しないことである(28節)。それで傷つくのは自分自身なのであるから。平安で静かな人生を歩むためには、人をよく見ることなのである。