115篇 主にこそ栄光を帰せ
おはようございます。ネパールは、町中にヒンズー教の偶像が溢れている印象的があります。近代化された日本では、そのような感じはありませんが、かといって目に見えない天地創造の神を信じる文化もありません。詩人は言います。人間は神に造られ、神を讃えるべきもの。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
ギリシャ語、シリヤ語、ラテン語などの古代訳では、114篇に続く詩篇と解釈されている。それは、出エジプトの素晴らしい主の御業を称える114篇に、115篇は呼応していると考えられるからだ。実際に115篇の構成は、まず主にのみ栄光が着せられるようにと願い(1節)、次に出エジプトの十の災いが意味した偶像の虚しさが語られ(2-8節)、主に信頼せよ(9-13節)と勧める。
だが、このような関係性は全くない、とする考えもある。この立場で想定されるのは、出エジプトの出来事ではなく、捕囚期のそれである。そして、より一般的に神の栄光と神に忠実な者への祝福が語られているとする。
だが考え方によってはそれでも連続性があるのかもしれない。というのも、エレミヤ書では、出エジプトと捕囚期の出来事は連続して受け止められている(エレミヤ書16:14,15)。だから、古代訳の解釈者たちも、その二つを念頭に両者をつなげて考えた可能性もある。出エジプトに続き、捕囚の御業を成した主は、歴史に生きる永遠の主である、と称えたわけだ。
2.偶像の虚しさ
1節、「ただあなたの御名に、栄光を帰してください」神を恐れ、神に栄光を帰すことが、人間の態度としての基本である(伝道者の書12:13)。しかし、人は生まれながらの罪人であり、神を神として認めることができない。その高慢さを捨てて、神の主権を認めていくことが人間としての本分である。人間は、主の栄光を宿す、土の器に過ぎない。主にいのちを与えられることなくして、ただの土くれに過ぎない現実を認めることだ。
そして、語ることも、聞くことも、触ることもできない偶像を作るようなことがあってはいけない。木や石、金属で造られた、魂のない偶像は、いかに神々しく造られようとも神とはなりえない。それらに、私たちの悲しみを感じる心はないし、私たちの祈りを聞き分ける耳の鼓膜もない。私たちの必要のために一緒に出て行く脚力もない。偶像は偶像である。火にくべてしまえばそれはあっという間に燃えてしまう。あるいはハンマーで叩き割れば粉々になってしまう。そして目の前からそれらが消え去れば、私たちはそのことを忘れてしまう、その程度のものである。だから拝んではならないし、それらに自分の人生をかけて祈ることがあってもならない(4-7節)。
3.主に信頼する
むしろただ、主に信頼せよ(9節)。この方こそ、助けであり盾である。詩人は呼びかける。「イスラエルよ」「アロンの家よ」「主を恐れる者たちよ」イスラエルは、信仰者全般への呼びかけ、アロンの家は、宗教的指導者への呼びかけ、そして、最後に、真に主を恐れる信仰者への呼びかけが繰り返される。
いずれにせよ、偶像ではなく、「天と地を造られた」(15節)まことに信頼すべき、神を覚えよ!である。天と地を創造し、私たちを存在させた神がおられる。目には見えず、どんな形にも表すことのできない神がおられる。その神にこそ信頼を寄せ、神の力を味わい知らなくてはならない。しかも重要なことは、その主が、「私たちを御心に留め」(12節)られた点である。私たちではなく主が御心に留められたのである。私たちが主を愛したのではない。主が私たちを愛されたのである。主が祝福してくださる。主から私たちに向かう積極的な関わりにこそ、私たちの賛美がある。