121篇 創造主の配慮と守り
おはようございます。この詩篇は、エルサレム巡礼の旅において、移り行く景色の変化に、これを造られた神への信仰とその恵みの感謝を詠ったものです。「私」と「あなた」の代名詞の変化にも注意し、交唱の歌として読み味わいたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
「都上りの歌」、ヘブル語で読むと、この121篇だけが、シール・ラ・マアロット(他はシール・ハ・マアロット)と、前置詞が加えられている。この前置詞は、方向や所有を意味するものであるから、「都上り」そのものへの関心があると見て良い。
そもそもこの「都上り」をどう理解するかが問題である。少なくとも三つの解釈がある。一つは、神殿の階段(イスラエル男子の庭から婦人の庭への出口にある15段の階段)を上ることと理解する。二つ目に、バビロン捕囚からの帰還民がエルサレムに帰国する旅と理解する。そして最後に、聖所エルサレムへの巡礼の旅と理解するものがある。普通は、最後の意味で理解するのであるが、この121篇は、前置詞がついているので、さらにユダヤ教では、天の世界に引き上げられる途上の歌と霊的に理解する伝承があった。確かにそのような読み方は深みを感じさせもするが、まずは普通に理解したいところである。つまり、この歌はエルサレムへ向かう途上で口ずさまれ、エルサレム近郊の山々を見上げながら、天地をお造りになった神を思い巡らし、礼拝への期待感を高めていくものである。
2.天地を造られたお方
そこでまず1、2節、巡礼の対象となる神への信仰告白が重要である。神は天と地そのものではなく、それらをお造りになったお方である。高くそびえる山々の高嶺を形作られた方、また谷の深みを形作り、広大な大地を延ばされた方である。その最高傑作の中に、ご自分の民を置かれた方である。だから「大地の恵み」を感じることがあるならば、それは、大地をお造りになった神の愛と配慮を感じることに他ならない。人は、自分を囲む山々の威容を見上げる時に、自分の助けは、この「天地を造られたお方から来る」ことを知らなければならない。そしてその永遠性と至高性を思うならば、3節「主は、あなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない」と告白せずにはいられない。
3.
次に、構造的に、1、2節の「私」から、3~8節の「あなた」への代名詞の変化に注目される。つまり、これも交唱歌として歌われたものである。当時の巡礼者は、一人で旅することはなく、共に群れをなして聖地エルサレムへと向かった。旅には、危険が多かったからだ。そして例えば、ナザレからエルサレムまでは、三日の旅で、宿泊場所も大方決まっていた。一日目はサマリヤの北10キロのサーヌール、二日目は、サマリヤの南22キロのレボナ、最後に残りの32キロを進んで、エルサレムへ達した。新約聖書には、イエスが幼少時、家族と共に巡礼の旅に出たエピソードがある。彼らもまた、うららかな春の日射しに包まれて、ナザレからエルサレムへ向かう途上、この都上りの歌を交唱しながらエルサレムへ出かけたのだろう。ともあれそのような旅路の中で、移り変わる山々の光景をみながら、人々は、これを創造し、人に恵みを施された神を覚えたわけである。
「主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰」右は、特権や代表の資格を示すことばであった。私たちに種々の困難があろうとも、その困難に勝る神がいる。目の前の山々が、いかに高いものであろうと、さらに高くにおられる神がいる。その神が、「すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのたましいを守られる」(7,8節)という。それは日常の営みについても言えることだ。神が私たち具体的な日々の歩みの上に、そして永遠に至る歩みの上に、ご自身の手を差し伸べ、守られているのである。主の平安。