詩篇140篇

140篇 罪人であることの自覚

おはようございます。詩篇を読む時に注意しなければならないのは、詩人の本来の文脈と、これを引用した新約の著者の文脈判断があることです。一つの詩が、別の意味で再解釈される良い例であろうと思います。それによってますます神に栄光を帰す読みができるのです。

今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.パウロの文脈と背景

表題は、「ダビデの賛歌」とあるが、ダビデ自身によるものではなく、「ダビデ風の賛歌」とされる。作詞年代もわかっていない。

まず詩人は、悪者からの救いを祈っている。「よこしまな人」「暴虐を行う者」はいずれも、集合名詞で、特定の人物を指しているわけではない。そのような人々という言い方である。彼らは、心と行為(2節)、そして言葉も(3節)悪で満ち、いつでも人を押し倒そうと狙っている。しかし、注意すべきことは、パウロはこのことばをローマ書に引用していることだ(3:13)。パウロは全人類が罪人であるという結論のイメージに、この詩篇の悪者のイメージを採用している。となれば悪者は他ならぬこの私自身のことである。

このように、この詩篇を自分自身に当てはめて読むのは、実のところ勇気がいる。自分の中に他人に対する暴力と残忍さ、そして欺きがある、自分は人を愛する者などではなく人を攻撃する者である、神に守られる者なのではなく裁かれるべき者である、誰もそんな風に自分を思いたくはないものだろう。私はいい人、と見られたいし、思いたいものである。サタンがアダムとエバに囁き、神のことばを信じるようにではなく神を疑うようにけしかけたが、自分をそんなサタンと同列に並べたくはないだろう。しかしそれが人間の現実である。自分は「蛇のようにその舌を鋭くし、唇の下にはまむしの毒がある」、そのように素直に認め、謙虚になることが、クリスチャンとしての第一歩である。そこができないと、いつまでもいい人ぶった、何か上から目線の嫌味なクリスチャンになってしまう。真の罪人意識がなければ、神の力によって新しい命に生きるという部分も起こりえないのである。

2.本来の文脈と背景

後半、自分を悪者の立場において読むと、なかなかきついものがある。「燃えている炭火が彼らの上に降りかかりますように」「彼らが、立ち上がれないようにしてください」(10節)「わざわいが暴虐を行う者を捕らえるようにしてください。」(11節)この私がそのように、神に祈願され、呪われている、などなかなか受け入れ難いものだ。しかし、実際にはそのような者であるのだし、そのような者だった。怒りと呪いと慟哭を受けて致し方のない者であった、その現実がわかると、いかに謙虚であるべきかを教えられるのである。

さてこの詩は、本来の文脈においては、サウルからの攻撃下にあった時に歌われた詩篇7篇やアブシャロムの謀反の時に詠まれた詩篇64篇とも似ており、パウロの引用とは別に苦難にある者の祈りと読むこともできる。

しばしば悔い改め、神の前に生きようとする私たちに、悪者、暴虐の者が立ちはだかる時がある。彼らは弱くなった私たちの心を、揺さぶり、傷つけ、悲しませ、落胆させ、神のことばにより頼むことを愚かだとすら思わせることだろう。悪者の横暴、暴虐の者の攻撃に容赦はない。だが、心配には及ばない。詩篇139篇でも学んだように、神は、私たちの一切をご存知である。私たちの生まれる前から、今に至るまで、私たちを見守られ、私たちに寄り添って、友となってくださったお方である。そのようなお方がおられるのに、何を恐れる必要があろうか。著者のように、心から、「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のために、さばきを行われることを。まことに、正しい人はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。」と(13、14節)罪を認め、謙虚であることを前提に確信をもって神に祈ろう。神は悔い改める罪人の味方なのである。

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