エレミヤ書1章

エレミヤ書1章 エレミヤの召命
おはようございます。本日からエレミヤ書に入ります。この書も長いですが、ぜひ、読み切るだけではなく、読みを深める努力をしてまいりましょう。気づいた時には聖書を読むのが当たり前のこと、欠かせないこととなっているはずです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.エレミヤ書の背景
預言者エレミヤの名は、ヘブル語で「主は高められる」を意味する。エルサレムの北東約4キロに位置する寒村、アナトテの町に住む祭司の子であった。彼は、BC627年に啓示を受け、約50年に渡って預言者として活動した。
 先のイザヤの時代に全盛であったアッシリヤは、BC633年アッシュール・バーン・アプリ王の死後、次第に弱体化し、BC612年新興勢力のバビロンに脅かされるようになった。そして、BC605年カルケミシュの戦いにおいて、ついにネブカデネザル王の率いるバビロン軍に破れ滅亡、ユダ南王国も、アッシリヤからバビロンの支配下に服していった。しかし南ユダのエホヤキム王は、エジプトを後ろ盾としバビロンから独立しようとした。その試みは失敗し、エホヤキム王は死に、エホヤキン、ゼデキヤが傀儡の王位につく時代が続いた。そしてエジプトを頼みとし独立を求める主戦派の動きは収まらなかった。そのような時代にあってエレミヤは、それが、神のみこころに反し、さらなる捕囚の悲劇的な結果を産むことを預言する。
2.エレミヤの召命
 1章は、エレミヤが預言者として召命を受けた時の出来事を語る。エレミヤは、神の召しにしり込みをしているが、神はご自分が共におられること、そして必要な助けを与えることを語る(8節)。そして、神は、エレミヤの目線に立って、エレミヤが見ているアーモンドを、私も見張っている、と語られる。アーモンドは、イスラエルでは1、2月頃に真っ先に白い花を咲かせ、春の訪れを感じさせる花である。またヘブル語の「アーモンド」(シャーケード)と「見張っている」(ショーケード)は語呂合わせとなっている。毎年アーモンドの花が咲き乱れるアーモンドの名産地アナトテで育ったエレミヤにとって、それは特別な気づきとなったことだろう。つまり、エレミヤの召命も神の裁きも、ある日突然思いがけずに起こったことではない。それは、神がすべてをショーケードしてきた結果である。だからエレミヤにとって神の召しは、案ずるに及ばない。他方北から傾く「煮え立った釜(13節)」は、南ユダのすべての悪に対して、神が北方の民を、裁きの執行者とされることを示しているが、これも突如なされることではない。神が繰り返し警告を発して来られた結果である。
神はエレミヤに「腰に帯を締め、おびえるな」(17節)と言う。しばしば神が託された働きは私たちの力を超えるもののように思われることがあるだろう。しかし怯んではいけない。というのも神は、すべてをショーケードしておられる。召し出された者が生まれる前からことを計画し、その働きに相応しく、幼いころから教育と経験を加える中で物事を進めて来られているからだ。私たちはただ神に従うのみである。

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