20篇 苦難の日に王のために祈る
<要約>
おはようございます。自分のために祈ることがあっても、指導者のためには、なかなか祈ることはなかったりするものでしょう。指導者に、自分たちのケアを求めることはあっても、指導者のケアに心を配ることはなかったりするものでしょう。この詩篇は、そのような私たちの不足を補い、私たちの生活を豊かにするものだと言えます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
一説に、ダビデがアンモン人、スリヤ人を打ち負かした際の祈り(2サムエル記10:14-19)で、その後、戦争の前後に士気を高めるために、あるいは、王の即位式や関連する儀式において用いられた詩篇と考えられている。実際内容的に、イスラエルの民が王の幸運を願い、集団で祝福をとりなす祈りの後に(1-5節)王が神の応えの確かさを宣言し(6-8節)、最後に民が王のための短い緊急の祈りを持って応答する(9節)内容、となっている。だから、1節「苦難の日」は、今まさに戦いが始まろうとしている日、王が出陣の準備をしている日のことを言う。イスラエルでは、戦争に出陣する際、そして戦争から帰還した際に、犠牲と祈りがささげられた(1サムエル7:7-9,13:8-12)。そして民は、主が王の計画、戦略に答え、願い通りに主にあって勝利が与えられるように、祈った。
2.指導者のための祈り
大切なのは、この詩篇を読みながら、私たちも指導者のために祈るべきことを思い起こすことだろう。指導者が、持っている計画の全てが神の恵みと守りの中で達成されるように、そしてそれが神の勝利として、神の栄光の業として、神の御名が崇められる形で行われるように、と祈ることである(5節)。
そのような意味で教会においては、絶えず、日本の為政者はもちろんのこと、教会の指導者たちのためにも祈られてよいのである。日本の祝福も、教会の祝福も、民の祈りにかかっている。パウロも勧めているではないか。「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」(1テモテ2:1)
2.指導者の確信
続いて、王の信仰的な確信が語られる。注目されるのは「神の名」が繰り返されることである。
苦難の日に、ヤコブの「神の御名」があなたを高く上げますように。(1節)
私たちは、私たちの「神の御名」により旗を高く掲げます(5節)
私たちは、私たちの神、「主の御名」を呼び求める(7節)
名は体をあらわす、とも言われるが、名はその人の本質を示すものと考えてよい。だから神の御名を呼び求める、と言った場合、神の本質、神ご自身の性質を呼び求めるということである。では、その神の本質とは何か。それは、7節「いくさ車」や「馬」に象徴され、対比されるものである。古代イスラエルにとって「いくさ車」と「馬」は、最も手ごわい戦力であった。しかしそれは、同時に、イスラエルにとっては、葦の海やキション川での奇跡的な勝利、神の力強さを思い起こさせる象徴でもあった。彼らは、エジプトを脱出しようとする時に、後ろから追い詰め、煽って来る「いくさ車」を、神が葦の海に跡形もなく葬り去った奇跡を目の当たりにした(出エジプト14章)。また鉄の戦車900両で攻め込んできたシセラの軍隊を、神が、かき乱し散り散りにされた(士師記4章)奇跡を経験した。神は私たちを地上において脅かす何物にも優って力強い。威力がある。確かに、神は全能の神、万軍の主、いと高き神である。
指導者は、この神によって偉大な働きをするのである。私たちに偉大な結果をもたらすのは、指導者が個人で持っている能力ではない。まして財力でも、あの人この人の人脈でもない。それらを生かしもし、殺しもする、全てを支配しておられる神の御名である。
3.自らの指導者のために祈ろう
民の応答が最後に続く。「私たちが呼ぶ時に」いつでも主よ、主が王を助け、この国を守り、祝福し、繁栄に導かれますように。私たちが王を助けるのではない。主が助けてくださるように。私たち自身も王同様に無力なのである。だから、私たちは祈らなければならない。