44篇 契約の神への信頼
<要約>
おはようございます。神に背を向けられたように思われるような時には、どのように祈るべきか。その時は、契約に立って祈ることを学ばなくてはなりません。神は契約に忠実なお方、神は約束を果たされるお方です。恐れて退く者ではなく、遜りつつ、主との契約を掲げて、主と語り続ける者でありたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
- 背景(1-8節)
国民詩と呼ばれるものの一つである。つまり、個人的な事柄ではない国家的な祈りの詩篇である。神は一人の人を救うこともできるが、この日本を救うこともできる。国の政治ががたがたのように見える時に、時代が悪夢に冒されているように見える時、神に祈り、神が日本を正しい方向へと導いてくださることを祈る、その祈りは決して空しくはならない。国はあまりにも大きく、私たちの手にどうにかなるようなものではない。しかし、小人数であれ大人数であれ、神に変わりはない。国を救ってくださる神がいることを私たちは知らなくてはならない。総理と閣僚のために、そして官僚のために祈ることは大切なことである。
ところでこの詩篇は、国家に起こった不幸について、しかも正しい国民に起こった不幸についてその意味を問い、回復を哀願する詩となっている。つまり、自分たちの力で今の繁栄を掴んだのだ、と奢ることなく、ただ神あっての勝利と繁栄であると認め、謙虚に主に寄り頼む日々を暮らしているにもかかわらず(3節)、神の禍を受けたと思わされるような状況において、神を畏れる詩人の困惑が語られているのである。そのような時にどう理解し、どうしたらよいのか、と(7,9節)。
- それなのに、と思うこと
神を認め、神に従う国家として正しい歩みをしていながらも、神が私たちを拒み、私たちを敵のように扱われることがある。その時に、どうあるべきか。ここでは不本意に巻き込まれた戦争での敗戦が想定されているようだ。敗走(10節)、虐殺と退散(11節)、奴隷化(12節)、恥辱(13-16節)、と詩人は、神に従いながらなぜこんな状況になってしまったのか、と語る。だがそこで詩人は、神の契約を無にしない、と語る(17節)。
神に従う国家は、神との契約関係に生きるのである。もし、契約が破られたかに見えるならば、私たちはその契約をもって神と語らう必要があるのだ。神を恐れても、神に訴えることを恐れてはならない。落胆の中にへたり込んでしまうのではなく、ヨブがそうであったように謙虚に言葉を尽くして神と語り合うことだ。十字架の仲介者イエスがおられる今はなおさら、そうすべきであろう。詩人は、訴えと祈りで、この詩を締めくくっている。ある意味で中途半端な終わり方である。これだから宗教は希望があるようで希望がない、と思ってしまいそうである。救われるのなら、すっきり救われたい、救われているのか、そうでないのか、よくわからないような救われ方など不要である、と思いそうなところだろう。
しかし後の時代に、使徒パウロは、22節「だが、あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています」を自らのローマ書に引用し、力強く「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37)と加えている。つまり私たちは、屠られる羊のように死の恐怖に直面させられているかもしれない、それは、神が契約を破られたかのように思える「圧倒的な敗北者」となった状況である。しかし、パウロは、そこから「圧倒的な勝利者」へと導かれる神の愛があることを確信をもって語り掛けている。
神は時が経てばなかったかのように扱われる契約を結ぶようなお方ではない。神は愛を持って契約を結び、どこまでも契約をお忘れにはならない。たとえ国家的な規模の課題であっても、神にはこれを建て直す力がある。事の大小によらず、神の契約を無にしませんという信仰に立つことを学びたいところだ。いやそのような心の態度が信仰的な習慣となるように訓練される必要がある。信仰はお飾りではない。試練に裏打ちされ、鍛え抜かれていくものである。錆び付いた信仰でもなく、腐れ果てた信仰でもなく、磨かれた信仰、いよいよ研ぎ澄まされ光り輝く信仰を抱いて歩みたいものである。コラ人と共に、祈ろう。「立ち上がって、私たちをお助けください。御恵みのゆえに、私たちを贖い出してください」(26節)と。国家を導かれる神を信頼していく者であろう。