57篇 御翼の陰に身を避ける
<要約>
おはようございます。本当に社会は狂っていると思うことがあるものでしょう。いい加減な濡れ衣を着せられたり、見下され、ゴミくずのように見捨てられることがあるものでしょう。しかし、神は誠実なお方であり、正しいお方です。神はちゃんと何が正しいことかをご存じであられ、必要な助けを供えてくださるお方です。賛美しつつ、夜明けを待ちたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
逃亡中の歌が続く。表題を見ると、ダビデがサウルから逃れて洞窟にいた時とある。恐らく、詩篇56篇のガテから逃れて間もなくの作であったのだろう(1サムエル記22章)。
ダビデは、サウルの攻撃を二つの形で表現している。一つは猛獣に追跡されているイメージ。槍と矢の歯、鋭い剣の舌で追い詰められているイメージである(4節)。そしてもう一つは、ひそかに罠を仕掛けて、獲物を待ちうける狩人のイメージである(6節)。言いようのない恐怖に襲われ、望みを失うような状況である。しかし、そのような敵意にさらされることは、ありえないことではない。どのようにそのような時をやり過ごしたらよいのか。
2.指針
一つのことばが印象的である。「滅びが過ぎ去るまで」(1節)。ダビデは、この危機がいつまでも続くものとは思っていない。必ず「過ぎ去る」ものであると理解している。希望が持てない時は、「いつまで」こんな状況が続くのか、と出口のない苦しみに悩むものだろう。しかし、そこで「過ぎ去る」という見通しを持てたら、後もうひと踏ん張りと思うこともできる。
「彼らは私の前に穴を掘り、自分でその中に落ちました」(6節)。これは、ダビデが、サウルの手から逃れようとし、たまたま隠れていたその洞穴に、サウルが用を足しに入ってきた出来事を言っているのかもしれない。サウルは着々とダビデを追い詰めていた。ダビデは、絶対絶命であると極度の緊張に立たせられていた。しかし、「王手」という所で、サウルはダビデに予期せぬ反逆の機会を与えてしまったのである。ダビデが部下を制することがなければ、サウルはその場で殺されていた。目に見える窮地は窮地とならないことがある。たとえ罠がしかけられたとしても、神がお許しにならない限り、その罠が機能することはない。むしろ、罠をしかけた敵が自ら罠にひっかかることが起こる。
3.実践
全ての状況を支配するのは、正しいことを行われる神である。そのように考えると、私達に危害が加えられていたとしても、それをことさら恐れる必要はない。ある意味で、敵と思われる人に、追われ、全てをはく奪されたと思われることがあっても、損失を嘆く必要もない。いい加減な誹謗中傷で、自分の名誉が全く傷つけられた、と思われることがあっても、いたずらに嘆きうなだれないことである。神は正しい者を守ってくださる。滅びは過ぎ去る。そして敵が自ら、仕掛けた罠に落ちることがある。ある。
パウロは、語った。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリント4:8,9)。確かに、神は正しい者の味方であるし、正義を行われる。その確信にはっきり立ち「神よ、私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌い、ほめ歌います」と告白しうる、これが信仰の成熟である。信仰はまさに望みえない時に望みを抱き、窮地にあっても、心穏やかに神を仰ぎ、神を待ち望ませるものなのだ。
ダビデは言う「私は暁を呼び覚ましたい」(8節)暁は、太陽が昇る前のほの暗いところ、ある意味で、最も闇の深い時である。しかし、歌いながらその夜明けを待つのだ。パウロとシラスが、真夜中ごろ、神を賛美する歌を歌い、他の運命を共感する囚人たちがそれに聞き入っていた状況を思い出すところである(使徒16:25)。神の救い、神が備えてくださる救いの日は、確実に近づいてきているという確信である。たとい今日がそうではなくても、朝があけるように確実にその日は来る。神の恵みとまことは、確かである。
だから、揺るぐことなく(7節)、神を褒めたたえ(7節)、感謝し(9節)、その栄光を待ち望む(11節)。これがほら穴に追い込まれた時に過ごし方である。逃げることを考えみじめな思いに自分を追い詰めることなく、また、果たせもしない復讐心に心を怒り狂わすのでもなく、むしろ、「神の御翼の陰に身を避ける」時を、神をたたえながら、つまり信頼しながら過ごすことが大切なのだ(1節)。神は誠実なお方である。