68篇 勝利の凱旋の歌
<要約>
おはようございます。今日は勝利の歌、ダビデがモーセの記録を読みながら、作ったと思われる詩です。そしてパウロがこれを、キリストの勝利に重ねて、再解釈を施したと理解できる詩です。ダビデがモーセのものを読み、パウロがダビデとモーセのものを読む、歴史的に受け継がれてきた信仰的遺産を感じさせる詩です。歴史的な実証に裏付けられた詩に力づけられてまいりましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
旧約聖書の中で最も壮大な勝利の歌の一つとされる。背景的には、2サムエル記6:2-18であり、神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの家へと移動し、安置した際に行進用として作られたと考えられている。おそらくダビデは、モーセが契約の箱を移動させた時の記録を読み返しながら、これを作ったのだろう。実際1節は、民数記10:35「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように」と、モーセが契約の箱を移動させるときに宣言したことばの引用である。そして7-10節は、神が、荒野から約束の地へとイスラエルの民を導かれたこと、11-14節は、カナンの地を征服させてくださったこと、そして15-18節は、約束通り、神の箱がシナイからシオンの山の頂に到着した祝福の回想である。15-18節は民数記10:36においてモーセが、契約の箱がとどまる際に語ったことば「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに」を敷衍したもの、と見なすこともできるだろう。そして、19節以降、神の尊厳を祝う礼拝の恵みが語られる。
つまりこの詩篇は、出エジプトからカナンへの大移動という、イスラエルの歴史的出来事の完結を祝うものであり、もはや仮住まいの時代は終わり、エルサレム永住に至った勝利を喜ぶものである。
2.新約の解釈
新約聖書において、パウロは18節をエペソ4:8にて引用している。「そこで、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた」。つまり、パウロが言わんとしていることは、まず、キリストが地の低い所に下られたこと、この地上に降誕され、人の世に生き、歩まれ、十字架の死、そしてよみの深みに下られ、そこから、天の神の右の座に上られた出来事を指している。今やキリストは一切の権威を手にし、私たちの世界を統べ治めておられる。そして、多くの捕虜を引き連れ、凱旋し、私たちには賜物を与えてくださった、という(2コリント2:14、コロサイ2:15)。パウロは、キリストの受難と復活による、神の贖いの計画の完成とその喜びを、ダビデが歌ったイスラエルの歴史的な勝利に重ねて語っているのである。そういうわけで最初の1-6節、賛美のファンファーレは、私たちのものとしても歌われる。こうしてパウロの解釈は、キリスト教会の歴史的な理解となり、したがって、キリスト教会では、ユダヤ教で収穫祭、七週の祭で用いて来たこの詩篇をペンテコステのための詩篇として用いられてきた。
ただし、実際的に言えば、その勝利はいまだ完全ではない。カナンの経験は、天の御国に入る経験とは全くイコールではない。カナンではさらに戦いが重ねられた。ダビデの制服は、それからであって、彼らはカナンの地を完全に自分たちのものとするために、勝利を重ねなくてはならなかったのである。今の私たちも同様である。私たちはさらに主にある勝利を重ねなくてはならない。「神は必ず敵の頭を打ち砕かれる」(21節)という確信を持って、さらに先に進まなくてはならない。だからこの詩篇は、神の勝利を歌うと同時に、その神による戦いの継続のために、歌われる歌でもある。
3.勝利を与えられる主
そこで大事なことは、私たちの主は「重荷を担われる方」であることを思い起こすことだろう。イザヤは、バビロンの偶像とイスラエルの神を比較し、偶像は民の重荷となるが、イスラエルの神は、民の重荷を担われるお方であることを明言する(イザヤ46:1-4)。
私たちはその方にあって勝利する。もちろん、今なお、この罪の世にあり、試練の中にあることも確かだ。既に述べたように、私たちの悩みは尽きないし、まだまだ戦いも続く。だが、神は、私たちの重荷を共に担ってくださるお方である。大切なのは、迷い無く私たちの心の思いをあるがままに告げ、力の及ばぬところを、神に委ね、神の助けを得ることである。また、この詩篇に散りばめられた、主の諸相を覚えることなのだろう。主は、「みなしごの父、やもめのためのさばき人」(5節)である。そして救いの神(20節)であり、雲に乗って来られる方(4節)、」「いにしえから、天の天を御される方」(30節)である
34節「神の力を認めよ」とある。礼拝の中心は、神を認めることにある。神にこそ、「力と勢い」があり、その神が礼拝において、私たちにそれを分け与えてくださることを認め、感謝と賛美で満ちあふれたい。