77篇 神の右の手に期待する
おはようございます。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。アサフの歌、新年に相応しい歌というべきでしょう。聖書通読とはいえ、実に、日々の与えられる日々のみことばは、その日その日にタイムリーに語り掛けてくるものがあります。昨年同様に、今年も神の御手に私たちの全てがあることを思う時に、今年も大いに、神に期待し、祈り、神と共に歩ませていただきたいと思うところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
バビロン捕囚の苦しみを背景として詠まれた、とされる詩であるが、本文から、それとわかる部分はない。つまり背景はよくわからない。ただアサフは、神殿での賛美指導者としての立場にあったから、国家的な苦難について、個人的な神との交わりの中で、神のみこころを探ろうとする中で、この詩を詠んだと言うことはできるだろう。10節を転換点として、この詩は、前半(1-9節)の苦難の日の嘆きと神への訴え、そして、11-20節の、神への賛美と大きく二つに区分される。
なお、エドトンは、詩篇39、62篇の表題にもみられる人物であるが、アサフやヘマンと同時代の預言者であり、「エドトンの調べにのせて」は、エドトンの指示に従った歌、という意味であろう。
2.苦難の日
さて、信仰を持っても、いつも喜びに溢れているとは限らない。人の慰めを得ることもできず、神に向かい、ただひたすら祈りの手を差し伸べてみても(2節)、心乱れるばかり、もはや眠ることもできない(4節)、ことがある。神を信じていないわけではない、信じ、祈っても、答えがない。時間は無為に過ぎて行き、今日も祈った事柄とは大よそ関係のない世界が広がっていく。差し迫った必要がありながら、あたかも差し迫ったものではないかのように物事が過ぎ去っていくことがある。完全に、社会の動きから取り残されてしまった自分がいるのみ。「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して受け入れてくださらないのだろうか」7-9節は、神への疑惑が独白的に、自問自答の形式で繰り返されている。
それは「主の恵み」「約束」「いつくしみ」「あわれみ」と人が神につながる基本的な手段が機能不全に陥っている状態である。私が受けるべきものは、神ののろいであって、神の祝福ではない。私にふさわしいのは、カインの呪いであり、サウルの宿命である、とどこまでもネガティブに考えてしまうことがあるものだ。
「私が弱り果てたのは、いと高き方の右の手が変わったからだ(10節)」(新改訳)、「いと高き神の右の御手は変わり私は弱くされてしまった」(新共同訳)この詩の転換点である。アサフが思い当たった、「右の手が変わる」とは、どういうことか。変わると訳されたシェノットは、「年」と訳される。これは、ただ単に「年々」(詩篇102:24)「歳月」「生涯」(創世記7:11)と時間的な長短の意味で理解されることもあるが、そうではない質的な意味も持つ。つまり、それは、イスラエルに対する神の裁きの「年」(イザヤ34:8、エレミヤ11:23)であったり、神の贖いの「年」(イザヤ63:4)、恵みの「年」(イザヤ61:2)であったりする。様々な語と組み合わされ、神の裁きが行われ、あるいは神の恵みが現される「年」を意味する。だから、文語訳の「至上者の右のみ手のもろもろの年をおもひいでん」という訳にもなりうる。右の手が変わるというよりも、右の手が覆う年々というイメージが大切なのだろう。つまり自分の弱さは神の支配のもとにあった、ということだ。彼はこの苦境も、神が支配していることに思い当たることで、神がこの先を最善へと導いてくださると神への信頼を取り戻しているのである。だから、この10節を境としてこの詩の前半と後半では調子が変化するのだ。神の介入による年々を思い浮かべるところから、「嘆きの歌」が「賛美の歌」へと転換していくのである。
今自分が神の呪いにあると思われることがあっても、それは神の右の手が覆う年々、神の支配の中にあってのことである。私たちの感じ方とは別に、神が時を支配しておられる厳然たる事実がある。
だから、詩人は言う。「私は主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの薬しい業を思い起こそう」(11節)「あなたのみわざを、静かに考えよう」(12節)。事実、出エジプトの時代は、暗黒の時代であった。神が祝福ではなく、呪いを与えられたと思うような時であった。いかなる希望も見出し得ない、日々であったが、そこに神が恵みと解放をもたらした。ヤコブとヨセフの子らを贖われたのである(15節)。動き難き水が分かれ、道が開け(19節)、地は震え、揺れ動いた(18節)。天地がひっくり返る騒ぎが起こり、人が踏んだことのない道が開かれた。神を信じる人生は、そういうものである。
だからこそ、私たちは神に期待を抱き続けなければならない。私たちの人生に置かれた神の御手は、私たちを覆っており、それは、裁きの日々も、恵みの日々も創り出しうる。何事かをなす御手である。今年も大いに神に期待し、祈ろう。