詩篇91篇

91篇 神の救いは確実ではあるが
 おはようございます。神の守りを約束する励ましの詩篇というべきものです。しかし、注意すべきは、悪魔がこの詩篇を引用してイエスを誘惑した、ということです。自分の願いがありながらも、神のみこころをよしとする、遜った心に相応しい詩篇というべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.文脈と背景
「いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る」(1節)詩人は、初めから自らの確信を語る。彼の確信は、神が「隠れ場」「影」(1節)「避け所」「砦」(2節)、つまり信頼しうる守り手である、ということだ。
構造的には、大きく1-13節、そして14-16節と二つに分かれる。前半の1-13節は、1、2、9節の類似性に注目すれば、ここは、「私」と「あなた」という二者の交唱詞で、後半の14-16節が「わたし」=「神」からの約束の宣言であると考えることができる。実際アラム語訳では、2、9節の「私」、3-13節の「あなた」、14-16節の「わたし」を区別する三部構成の交唱詞として読まれてきたとされる。実際にこれがどのような構成形式で読まれたのかはよくわかっていないが、信仰共同体の共通の確信として、公的な詩として礼拝の中で読まれたのに間違いはない。だから、現代の礼拝にあってこれを皆で交唱するとしたら、2、9節を司会者が、残りの3-13節を会衆が、そして祭司が宣言したと考えられる14-16節を全員で読んでみるのが、元々の読み方に近いのかもしれない。
ともあれ、この詩篇が生まれた背景には、エジプトからの脱出劇があった、つまり神の大きな力強い御手によって、エジプトを離れ、航海を渡り、シナイの荒野へと逃れた奇蹟的な物語があったと考えられている。確かに、5、7、10節は出エジプトの背景に重ねることができるだろう。しかしこれを捕囚期後に書かれたとする説もあり、その場合は、捕囚からの帰還を第二の出エジプトと見て詠んだとも考えられる。いずれも大いなる神の奇跡的な力と解放を思い起こさせる歴史的な出来事である。
2.悪魔的確信
そこから私たちは、この詩篇をもって、奇跡的な守りを祈ることができるだろう。ただ、注意せねばならないのは、悪魔がこの詩篇の、11、12節をを引用してイエスを誘惑したことである(ルカ4:10-11)。悪魔は、イエスに「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。「神は、あなたのために御使いたちに命じて、~」と語り掛けている。これに対してイエスは、「あなたの神である主を試みてはならない」と答えられている。つまり、神の奇跡的な守りというものはあるだろう。だが、神の主権を犯す、奇跡的な守りを期待することはできない。神は、私たちに、守りを約束されたが、それは神の一存によって実現しうることであり、私たちの願いのままに起こりうることではない。
3.主に付着する
「狩人のわな」は、企みや陰謀を意味する。「疫病」「夜襲」は、不意打ちを食らわせること、そして「疫病」は破壊的な打撃を与える伝染病のこと、私たちの周りには、そのような危険が溢れている。そのような中で、神は約束どおりには守ってくださらなかった、と思わされることは多々あるものだ。しかし、イエスは、約束における神の主権を強調されたのであるし、「夜襲」のようにゲッセマネで逮捕され、「狩人のわな」に陥った時も、イエスはその事態を変えることはできるが、聖書のみ言葉が実現するためにそうはしない、と断定されている(マタイ26:53、54)。神の守りはある。しかし神の主権のもとに、神のみこころをよしとする心をもってこの詩篇を読むべきなのだろう。14節「わたしを愛している」の原意は、「神にくっつく、神に付着する」である。自分の願いはありながらも、神のみこころをよしとする、神に付着する心が、信仰の成熟なのだ。

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