2章 エゼキエルの召命(2:1-3:11)
おはようございます。エゼキエルが神に召された時のエピソードが記録されます。神が彼を働き人として立たせるために説得していく神の熱意が印象的です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.預言者エゼキエル
神は、エゼキエルに語りかけられました。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る」(2節)。「人の子」は、イエスが好んで用いた称号です。それは、エゼキエルが神に造られた被造物に過ぎず、「人間のような姿」をした天使的な生き物(1:5)とは違うことを意味しています。神に召し出されたエゼキエルは特別な存在ではなく、只の人間である、ということです(2節)。パウロ的に言えば「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(2コリント4:7)ということでしょう。まさに神の働き人である預言者は、神の格別なあわれみによって召し出され、神の恵みを知らせ、伝える務めに任じられています。
そのような意味で、私は牧師、伝道師に能力があるとかないとか、などという議論は、ナンセンスであると思っています。実際、エゼキエルという人物を見ていけば見ていくほど、彼ほど不器用な人間はいない、と思うところがあります。教会が、この世的に能力のある牧師を求めることを止めて、地味であっても、只神のみことばの召しに忠実に生きる牧師に目を留めていく、それが今の日本の宣教を力あるものとするのかもしれません。
2.恐れるな
神は、エゼキエルが遣わされる人々の特徴を語っています。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす」(3節)。「彼らは厚かましく、頑なである」(4節)。これは過去のお話ではありません。文字通りこのような人々が、今の時代にもいるものでしょう。はっきり物事を伝えても、全く聞いていないかのように振舞う人、いやそれ以上に、自分の思うところをただごり押ししてくる人、このような人は今の教会でも珍しくはありません。むしろ普通のことかもしれません。
神は語ります。「聞く聞かないに関わりなく」語らなければならない、と。何とも嫌な命令ではありませんか。神のことばに素直に耳を傾ける者は少なく、ましてそれを行おうとする者もいない。信仰は付け足しで、まるでお付き合いのようである。信仰の成熟のために、自分の生活環境のすべてを変えていく、など決して行おうとしない頑なな人々に語らなければならないのです。それが神の器としての使命なのです。
エゼキエルは不器用ではあっても単純な人ではなかったでしょう。そして祭司の子であった彼が、イスラエルにおいて預言者たちがどのように扱われてきたのか、知らなかったはずがありません。そして時代は極めて悪かったのです。にもかかわらず、神は言うのです。「彼らや、彼らのことばを恐れるな」「恐れるな」「そのことばを恐れるな」「彼らの顔におびえるな。」エゼキエルを説得し、神の器を起こそうとする神の熱心さがあります。そのような意味で、今の時代においても、牧師の働きにしり込みする人々に、神は「恐れるな」「彼らの顔におびえるな」と語りかけておられることを知らなくてはなりません。
「あなたの口を大きく開けて、私があなたに与えるものを食べよ(8節)。」牧師、伝道師の働きは、自分の夢や持論を展開することではありません。神が与えられるものをまず自分の中に取り入れ消化しなくてはならないのです。神はそれが「嘆きと、うめきと、悲痛に満ちた」内容であると言います。人に「嘆きと、うめきと、悲痛に満ちた」ことを語ればよいのではないのです。まずそれを自分のこととして受け止めていくのです。そして語るのです。良い羊飼いと悪い羊飼いの差がそこにあると言えるでしょう。