エレミヤ書19章 神にとって見知らぬ所となる
おはようございます。本章は、文脈的には7章から続き、エルサレムへの裁きを語る繰り返しです。しかし、ヨシヤ王(1-6章)からエホヤキム王の時代(7-20章)に進み、その預言は取り消されない内容として語られています。神は生きておられ、時代と共に動いているのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.見知らぬ所とした
再び神は、実物教育を通して、エルサレムに対する神のさばきがもう取り消されないものであることを伝える。粘土の陶器は再制作が可能であるが、一旦乾燥させ、硬化し、塊と化した陶器は、失敗作としてもこれを作り直すことはできない。もはや砕くのみである。エレミヤは、神が命じられるままに、土の焼き物のびんを買い(1節)、そのびんを砕いた(10節)。瓶は、偶像礼拝から悔い改めて立ち返ることのない霊的に頑ななイスラエルの象徴であり、それは、もはや壊されて捨てられるのみである。
エルサレムの西側から南側を囲むベン・ヒノムの谷には、当時モレク礼拝のために親たちが子どもを人身御供としてささげたトフェテ(焼き場の意味)があった。「陶片の門」は、「糞の門」と考えられている。モレク礼拝は、カナン人の土着の宗教であったが、イスラエルの民には、それは堅く禁じられた(レビ20:2-5)。しかし、モレク礼拝は、ソロモンが愛した外国の女によってイスラエルに忍び込み(1列王11章)、アハズ王(2列王16:3)、マナセ王(2歴代33:6)の時代にあからさまな形で実施された。そのような状況は、神にとってイスラエルを全く異国のような見知らぬ所としてしまったのである。
ヨシヤ王は、このような状況下にあって宗教改革を実施し(2列王23:10)、ヒノムの谷を破棄物の焼却場、犯罪者の火葬場とした。二度とそれらが行われないようにするためであった(エゼキエ5:6)。しかし、後のエホヤキムの時代にこの偶像崇拝は復活したのである。エレミヤはその谷を「虐殺の谷」と呼ぶ。というのも、バビロンに包囲され陥落したエルサレムには死体の山が生じ、それらすべてを処理するためにこの谷は使われたからである。
2.二度と直すことはできない
砕かれる瓶の預言は、神の裁きの決意が取り消されないことを意味する。これほどエレミヤが、わかりやすく、また確実に神のメッセージを伝えながらも、イスラエルの民は悔い改めなかった。そして滅んでいった。
今日の私たちは、かつてのイスラエルの人々のような偶像崇拝はしないかもしれない。しかし、神が私たちの生活の場に降りて来られるようなことがあったら、そこが神の目に「見知らぬ所」と映ることはないのだろうか。やっていることはいたって聖書どおりのようでありながら、かつてのイスラエルの民が「あなたがたは、わたしに会いに出てくるが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなた方に求めたのか」(イザヤ1:12)と言われることはないのだろうか。あるいは、「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す」(黙示録3:17)と言われるようなことはないのだろうか。日々、自分が神をどのように愛し、それを形にしているのか、改めて考えたいところではないだろうか。