エレミヤ書18章

18章 呪いを祝福に換える

おはようございます。今のあなたは望みをもって生きていますか。自分の人生がこのまま朽ち果てていく、生きる意味もないと考えていることはないですか。神を信じることは、迷信ではありません。神は生きておられ、呪いを祝福に換えてくださるお方です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.陶器師のたとえに学べ

陶器師のたとえである。陶器師は、自分で気に入った器ができるまで、何度でも粘土をこねまわす。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルも神の手中にある。だから、たとえ、神が滅ぼすと語ったものについても、神は思い直すことができる(7節)。物事の成り行きがどんなに危うくなり、固定化され、希望を失う事態になったとしても、神の一声でその結果は変わるのだと言う。そしてその逆も真なのである(10節)。大切なのは、神の愛と義の原則に適う歩みをするか否かであり、いかに堕落した国民であれ宿命的に罰が加えられるわけではない。神がヨナを遣わし、悔い改めたニネベにしたことを思い起こしたい(ヨナ3:10)。問題は、そのような権威をもった神を認めること、信じて悔い改めることができる否かにある(11節)。だが人の心は頑なである(12節)。

13~17節は、12節に示されたイスラエルの心のかたくなさを詩的に表現している。14節は、自然現象を取り上げて、イスラエルの行為の不合理性を説明しているがわかりにくい。それぞれの単語の意味を確定するのが難しく、種々の訳がある。しかし言いたいことは、神が定められたように自然の営みは理に適って動いているのに、イスラエルはそうではない、神の民が神を忘れているのはどういうわけか、という神の苛立ちがある。

2.エレミヤの呪い

後半、18節からは、エレミヤの祈りが綴られる。一読「呪いの詩篇」と呼ばれるものに近い。つまり、読者の感情を神との祈りの中で昇華する目的で作られ詩篇に似ている。エレミヤは、イスラエルの滅亡を予言したが、それは彼の望むところではなかった。その預言によって一番心が痛んだのは、外ならぬ彼自身であったことに注意すべきである。しかし、誰も彼を理解する者はおらず、かえって、彼は悪意と陰謀に曝されていた。彼の預言を聞いた者たちは、いよいよ心を頑なにし、エレミヤを葬り去る計画を立てていたのである。それはアナトテでの陰謀よりもさらに大がかりなものであったと思われる(11章)。

孤立無援の状況の中で、エレミヤの激しい心中が吐露されている。呪いの詩篇の効用は、人を神の前に正直にさせるところにある。一読、エレミヤのように呪う姿に、「あいつをギタギタにしてください」と毒づいた過去の記憶を呼び覚まして共感する人も少なくないだろう。もちろんそれは聖書が語る「汝の敵を愛する」信念とは異なっている。しかしそれが人間の素の現実である。愛しえないものがあり、粉砕し尽くしたい衝動に駆られるものがある。だが、神は違う。たとえそう思われる対象があっても、その人々が悔い改めるなら、神はその思いを変えてくださる、と言う。呪いを祝福に換えてくださるという。計り知れない恵みに富んだこの神を信じ、神と共に生きる決意をしよう。