27章 時代の声ではなく神のことばに聞く
おはようございます。今日の箇所も、また時代を遡って語られていると思われるところです。大切なのは、時代が欲している声ではなく、神がその時代に語り掛けている声に耳を傾けることです。歴史の主であり、歴史を形作られる神のことばにこそ耳を傾けたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ゼデキヤへの預言
1節、新改訳では、「エホヤキム」と訳された王の名に※があって、注釈を見ると「いくつかのマソラ写本およびシリア語訳では『ゼデキヤ』」とあります。これはどうも筆写上の誤りで、ゼデキヤが正しいという説があるためです。実際、内容からしても、また28:1の「その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め」という記述からしても「ゼデキヤ」の方が年代的には正しいのでしょう。となれば、27章は、さらに26章よりも時代を遡っていることにも注意すべきでしょう。
さて、この預言は、BC605年第一回バビロン捕囚の時に語られたものです。その時ユダ南王国はバビロンの支配に屈していました。まだ征服されていなかったエドム、モアブ、アモン、ツロ、シドンなどの近隣諸国は、バビロンに対抗するため、ユダ南王国に同盟を持ちかけてきました。そこでエレミヤは、「彼らの誘いに乗らないように」「バビロンの王に征服されることはないと語る、偽預言者のことばに耳を貸さないように」と警告するのです(9節)。また近隣諸国に対しても、自分の首に縄とかせを付けた芝居じみた方法で「そのくびきを外さずに、そのくびきに甘んじるように」、つまり「バビロンの支配を受け入れるように」と語るのです。エレミヤの預言活動は、実に人々の注目を集めるものでしたが、それだけショッキングな手法を使わなければ、神のことばを語り聞かせるのは、難しい時代の声があった、ということなのでしょう。
2.人は獲られ、財宝は返される
16節以降は、王ではなく、祭司と民に向けて語られたことばです。BC605年にバビロンに持ち運ばれた(2列王24:13)、神殿の器、祭具類が、返還される預言も偽りで、そのような偽預言者たちのことばに耳を貸してはならない、と言います。実際28章を見ると、アズルの子ハナンヤが、2年のうちに奪われた財宝が返還されると預言しています(3節)。しかしこれも時代の声、偽預言であって、神の意思とは違うものだ、と言うのです。
大切なのは、この章の前半と後半のつながりを理解することです。前半では、異国の王ネブカドネツァルに、当時の世界を支配させる神の意思表明が語られています。イスラエルの神がそんなことを許すわけがない、と人々はエレミヤよりも偽預言者のことばになびきました。しかし後半でエレミヤは、それがまさに神の意思であることがわかるしるしを語るのです。つまり先の捕囚の時に持ち去られた財宝は、偽預言者が語ったように戻ることはない(16節)、けれども、次の捕囚の時に持ち去られる財宝は、神が戻してくださる、と(22節)。事を行うのはネブカドネツァルではなく、神なのだ、神の意思がすべてなのだ、というわけです。時代の声に惑わされず、歴史を動かす神の声を聞き分ける心を持ちたいものです。