26章 いのちをかけて語る
おはようございます。今日の箇所は、昨日よりもさらに時間を逆戻りしています。エレミヤ書の記述が補足され、エレミヤの活動の奥行きが見えてくるところです。補足を加えたバルクの意図は、いのちがけで神の言葉を伝えたエレミヤを描くところにあったと思われます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.再び神殿預言
既に述べたことであるがエレミヤ書は、時間の流れに沿って書かれているわけではない。この26章も、先の25章よりさらに時を遡ったものとなっている。それは7:1-15に記録されている神殿での説教を要約し、その時の背景と結果を記したものである。
エレミヤは、神殿の庭に立って、士師の時代のシロのように(1サムエル4:11)、エルサレムの神殿も破壊され廃墟となることを預言した(9節)。しかしそれは祭司と預言者のみならず、すべての民の反感を買い、エレミヤは捕らえられ、死刑を宣告される危機に陥った。ユダの首長たちによって、その危機は回避されていくのであるが、10節以降は、エレミヤの裁判の記述となる。
2.裁判にかけられたエレミヤ
エレミヤはものおじせずに弁明している。第一に、自分は主に遣わされて語っていること(12節)、だから主の前に悔い改め、主の御声に聞き従うべきこと(13節)、第二に、自分は誰にも逆らっていないこと(14節)、だから、自分を有罪とするなら、罪のない者の血の報いを受けることになること(15節)である。緊迫感のある場面の中で、冷静に、しかも確信を持って対応しているエレミヤの姿が印象的である。そして、イエスの裁判との違いをも考えさせられるところだ。イエスの裁判においては、イエスが神ご自身であるのか否かが争点であった(ヨハネ19:7)。そして、イエスが十字架にかけられた後は、その罪のない者の血の報いを受ける結果が生じていることに注意が向けられている(使徒2:36)。そして「十字架にかけよ、と叫んだ者の中にわたしがいる」と詩人の水野源蔵さんが綴ったように、現代人の耳にも、罪のない者の血の報いが及んでいることが新約聖書を通じて語られていることを理解したいところである。
3.ミカとウリヤのエピソード
裁判は、ユダの首長たちの発言によって、エレミヤに有利となり、彼は九死に一生を得た。ミカの預言を例に、エレミヤの主張は認められた。ミカは約100年も前に、エルサレムを中心に、下層階級の人々に神のことばを伝え、小さな預言書を残している。彼のことばに応じて宗教改革を実行したヒゼキヤ王の業績が記憶に留められていたのである(18-19節)。またエレミヤの書記バルクによる挿入なのだろう、同じ預言をして殺されたウリヤの例があげられている。エレミヤは政治的にも力のある祭司アヒカムに守られたと言う(2列王22:14、25:22)。生死を分ける神のみこころはわからない、しかしこのエピソードは、エレミヤがいかに危機的状況にあり、神のことばが彼のいのちと引き換えに語られたのかを示している。宣教はいのちがけである。それは神のいのちを得させる働きなればこそである。