17章 心から神に近づく
おはようございます。私たちの罪とは何か。それは偶像崇拝であり(16章)、まことの神を認めないことです(17章)。倫理的、道徳的な罪はその結果に過ぎません。より追及すべきは、いかに神を認め、愛し、喜ぶかにあるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神を認めない生産生活
17章は、16章に続き「私たちの神、主に対して犯したという、私たちの罪とは何か」に対する二番目の答えとなる部分である。先に、それは、偶像崇拝の罪であったという(11節)。ここでは、神を認めない日々の生産生活というべきものが批判されている。
そもそも、私たちは、毎週礼拝に通って何をしているのだろうか。当時は、神殿に赴き、犠牲動物をささげる礼拝であったが、彼らはいつも、犠牲動物が屠られ、その動物の血が祭壇の角に塗り付けられるのを見ていたのである。それは彼らの罪の赦しのため、そして彼らが神あっての人生であることを覚えて、新しい一週も主に癒され、刷新されて歩むためであった。彼らは「祭壇の角」を見ながら、「心」が主に取り扱われることをそこで学んだのである(1節)。だが、それは単なる儀式に過ぎなかった。心は主から遠く離れていたからである(5節)。彼らの心にあるのは、神抜きの儀礼であり、生活であった。だから、後半で戒められているように、彼らは安息日に働くことに何の咎めを感じることもなく、主を信頼するよりも、誰が信頼しうるか、常にその心は人に向いていた、と言うべきだろう。そのような人生は、「地にその名が記される」つまり、神にもその名は覚えられることはない、いずれ誰からも忘れ去られてしまう、ということだろう。
2.安息を聖なるものとせよ
「安息日に荷物を運ぶな。またそれをエルサレムの門の内に持ち込むな。また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ(21、22節)」。大切なのは、運ぶ、持ち込む、家から出す、という行為のことを言っているのではないことだ。むしろ、安息日を聖なるものとすることである。主あっての生活である、と主を認める特別な日を守る、ということである。ただ日曜日ごとに、教会へ行く習慣を築けばよい、ということではない。イザヤは心ここにあらずの犠牲動物を、ただ習慣的儀礼的にささげる礼拝に、神が嫌悪感を抱いていることを伝えている(イザヤ1:11)。主にお会いすることを心待ちにし、楽しみとし、一週の守りを心から感謝し、自ら備えたささげ物をささげる気持ちをもって集う日となっているかどうかが問われているのである。聖日は、まさに神を喜ぶ時であり、神の安息を楽しむ時なのである。そのように神と交わるべき時を犠牲にして、仕事に精を出すということは、形ばかりの礼拝をささげるのと同様、結果、神の存在を否定していることに他ならない。
もちろん、仕事の性質上、日曜日を聖日とすることのできない人もいる。そのような人を念頭にして語っていることではない。大切なのは、「安息日」を守ることではなく「安息」を守ることである。主を慕い、愛する心が問われている。