エレミヤ書16章

16章 神の存在は、昔話ではない。

おはようございます。若い頃は、道端で石地蔵を拝んでいる年寄りに、あんなものを拝むなんて、と思ったものでした。しかし、年を取ってみると、それが人間の自然な気持ちであり、行動なのだ、と思うようになりました。拝むなら、まことの神にこそ心を向けたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神はみこころを変えられない

神はエレミヤに未婚のままでいるように、と命じられる。それは、パウロが、危急の時には妻をめとらないように、と勧めているのと同じで(1コリント7:25-33)、神の裁きの緊急性を示している。葬儀や宴席に連なることは空しい、神の悲惨な裁きが差し迫っている、と言う(9節)。確かにその後のエレミヤの生涯を見ていくと、エレミヤは、ネブカデネザルに解放されるまで、ゼデキヤ王によって牢獄に閉じ込められ(39章)、その後も、植民地政府立て直しの動乱に巻き込まれ、エジプトに連行されていく(43章)。まさに、神は、先を見る方、知らせる方である。神の命令に従うことが最善であることに間違いはない。

ただ、エレミヤは、風変わりな人生を生きたが、人との付き合いを避ける非社交的な変人ではなかったのではないか。いたって彼は常識人であり、「楽しみの声と喜びの声(9節)」の日常を背景とする人であったと思われる。にもかかわらず、神は彼からそれを取り上げたと言うべきだろう。だが、有無を言わさずそうなる時は近付いていた。神はエレミヤのとりなしにもかかわらず、その御心を変えられなかったのである。アブラハムのとりなしにもかかわらず、ソドムとゴモラが滅ぼされたように。しかし、神は、全くエルサレムを捨て去ったわけではない。後にこれを回復させられると約束する。つまり新しい出エジプト、捕囚からの帰還があることを約束される(14、15節)。

2.まことの神を崇める

彼らは自らの罪のために国を失い、捕囚の苦難にあう、いわゆる「二倍の報復(18節)」を受ける。それは因果応報というべきものであった。しかし、彼らは神の怒りを受けて、倍返しを受けて終わりではない。回復を約束されているる。そこに理屈はない。滅ぼされたものが、再び神の祝福を受けるいわれはないのである。ただ、神の不合理な愛の故に、まことの神の存在が正しく認められるためである(15節、19節)。

ネパール国の小学校一年生向けの科学の教科書を見たことがある(Ekta Integrated Science Health & Physical Education)。第一課で、「生きているもの」と「生きていないもの」の区別が教えられていた。木や金属でできた生きていないもの、それは、成長しないし、動くこともないし、食事もしない、と生きている動物や植物との区別が教えられる。人生の初めにこのように教えられるネパール国で、なぜ木や金属でできた偶像があれほど溢れ、神として恭しく拝まれているのか、不思議に思うところがあった。「人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない(20節)」。信仰心を持つのなら、まことに目に見えない、生ける神を愛したいものである。まことに死せる人にいのちを与え、愛し、最善をなしてくださる神に、目を開き、心を開いて従っていくこととしよう。