エレミヤ書15章

15章 疲れ切ってはならない

おはようございます。一読、落胆するエリヤが再度預言者として立って行ったエピソードを思い浮かべるところです。信徒的信仰者としてあることから、一歩踏み込んで、神の側に立つ信仰者としての在り方を、考えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の怒り、嘆き、落胆

エレミヤと神の問答が、14章から続いている。旧約聖書においてモーセは律法の代表、サムエルは預言者の代表である。かつて彼らは罪深いイスラエルのためにとりなしをしたが(出エジプト32:11-14、1サムエル7:5-9)、もはや、彼らのとりなしがあっても耳を貸すことはない、と言う。それは、長い55年間のマナセの治世に、行われたことのためである。マナセは、高き所の再建、バアルとアシェラ像の造営、万象崇拝、人身犠牲、卜占、まじない、霊媒、口寄せと、イスラエルにあらゆる偶像崇拝を持ち込んだ。それは、イスラエルの大いなる逸脱の時代、神のことばに「両耳が鳴る」時代であった(2列王21:1-18)。「おまえに立ち直る機会を与えるのには、もう疲れた。」(6節:リビングバイブル訳)神の怒り、失望、落胆がそこにある。

見捨てられたユダヤ人の運命が語られる。彼らは戦争の悲惨さの中で、無援の敗北を味わう(7、8節)。七人の子を儲けることは、女にとって祝福を意味したが、もはやその祝福も失われる。神に立ち返ろうとしない者たちの運命は、肉として滅び、土に帰る他ない。神から永遠に分離されるのである(3節)。

2.エレミヤの心に語り掛ける神

神の怒りの言葉の前に、エレミヤの思いが語られる(10節)。神と人の間の板挟みになりながら、預言者エレミヤは、自分の役割を疎まずにはおれなかったのではないか。頑なで敵意に満ちたイゼベルに、神のことばを伝え続けなくてはならなかったエリヤと同じ心境である(1列王19:3、4)。彼は神の側に立つことで敵視され、呪われ、孤立し、さらに命を狙われているのである。神も「もう疲れた」のかもしれないが、エレミヤも「もう疲れた」のであった。そしてエレミヤは人間であって神ではない。神に疲れはない。あくまでもそれは人間にわかることばで神の心を表現したまでに過ぎない。しかし、人間であるエレミヤは、もはや神の使命に真っ直ぐ生きることに疲れ切ってしまっていた(10節)。神は私に言わせるだけ言わせて、私に加勢してくれない。あなたはずるい、と言わんばかりである(18節)。不満たらたらのエレミヤに、神が懇ろに語り掛ける(19節)。神は、エレミヤに「(お前を)あわれむのに疲れた」とは言わない。むしろ「帰ってくるなら帰らせる(19節)」と言う。不平不満ではなく、神の言葉を語るなら、その言葉が無に帰すことはない。さらに、あなたが打ち負かされることもない。神は確かにエレミヤと共にいて悪しき者から救い、助け出すと言う(20節)。預言者の職務は、神の御言葉をイスラエルの民に浸透させていくことであった。牧師もまた然りである。神の聖域に生きることは、世との関りの中で悩みつつも、祈りと信仰と忍耐による実を結ぶことでもある。

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