エレミヤ書14章

14章 エレミヤのとりなし
おはようございます。エレミヤのとりなしの祈りに教えられるところです。それは、アブラハムのとりなしの祈りを思い起こさせると同時に、とりなしの祈りが、天上の祈りであることを思わさせるところです。そのような意味で、祈祷会は、天上の祈り会というべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エレミヤが祈る
神はエレミヤに国家が日照りに襲われることを警告する(1-6節)。パレスチナはしばしば干ばつに襲われることがあったが、それは、神の呪いの契約の一部である(申命11:17)。14章を読んで印象的なのは、アブラハムのとりなしに通じる、エレミヤのとりなしである(創世記18:27-33)。本当のところいつの時代にも必要とされるのは、このような愚直な祈りをささげる人なのではないか。
7節の主語は、「私たち」である。エレミヤが、民に代わって祈っている。これが神殿でなされた祈りなのかどうかは不明であるが、飢饉における祈りは勧められ、神がそれを聞き、願うことすべてをかなえてください、とソロモンによって祈られている(1列王8:37)。だが、ソロモンの願いを退けるかのように、エレミヤの祈りは拒否された。神の怒りは激しく、エレミヤは、「彼らのために幸いを祈ってはならない」(11節)と警告され、さらに神の報復は、日照りに加えて「剣とききんと疫病」であるとされる(10-12節)。そこにアブラハムのように食い下がり、民の赦しのためにとりなすエレミヤの姿がある。
2.神の聖域に入るとりなしの祈り
エレミヤの祈りは、ソロモンの祈りに沿って祈られる。ソロモンが祈ったのは、神が祈りを聞くことで、「地上のあらゆる民が御名を知る」ということである。エレミヤも「御名のために」「あなたの契約を覚えて」(21節)と、イスラエルが捨てられることは、主の御名がそしられることであることを繰り返す。そして同時に、エレミヤは人が罪の中にある現実を深く認めている(20節)。大切なのは、神が求めておられるのは、関係の回復であって、取引のそれではないことだ。人は、神がしてくださることに関心があるだけで、神との交わりには関心を持たない。人は神を愛するのではなく、神の富を愛している。だから、自分の都合に合わせて神が存在する。聖書を読むことは喜びとはならないし、祈りも呪文のごとく唱えられるだけで、礼拝も単なる儀礼であり、お付き合いとなる。神とよき時を過ごし、神ご自身を喜びとし、誇りとする信仰の歩みこそ、求められていることだ。
神はエレミヤが自らと心を交わす数少ないその一人であることを認める。17、18節は、神の心を代弁するエレミヤの叫びである。そこには、神の深い痛みが語られている。つまり、愛する神の民が路頭に迷っている状況、そしてこの民を正しく導く霊的指導者が誰一人いない状況に、神は深く痛みを感じている。エレミヤのような正しい人がいても、民も指導者も耳を貸そうとせず、無知蒙昧の中で滅びていくのである。しかしたとえそうであっても、エレミヤは神と心を重ね、神の契約に基づき、神の御名のために、と陰で祈るとりなし手であった。とりなしの祈りをする者は、神の聖域に生きる者である。

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