エレミヤ書24章

24章 もう引き抜かない

おはようございます。二つのいちじくのたとえです。この神のことばを自身にも語られたものとして読めば読むほどに、心のうちにふつふつと希望が湧いてくるのは、私ばかりでしょうか。神の善意と誠実さによって建てられる人生をしっかり歩んでまいりましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.いちじくの幻

いちじくの幻が記録される。この幻はBC597年、エコンヤ(エホヤキン)が王族や官僚、技術者等と共にバビロンへ捕囚となった後のものである。主の宮の前のかごに、二つのいちじくがあった。一つは良いもので、他は悪くて食べられないものである(2-3節)。それぞれ、バビロンに捕らえ移された捕囚の民、捕囚において残された民あるいはエジプトにのがれた民を象徴した。神はバビロンに捕らえ移された民には、やがて来る解放と国家の立て直しを約束する。一方残された民には、災いと滅びを宣告される。

当時は、敵国バビロンに連れ去られた王族や官僚たちは、彼らの罪に対する当然の刑罰を受けた者であり、エルサレムに残された者は、処罰を免れ、神の恵みを受けた者である、と考えられていた。しかし、神は、二つのいちじくの幻をエレミヤに示し、その考えを覆す預言を与えられる。

神の祝福を受けるのは、聖地エルサレムに残った人々ではなく、バビロンに連れ去られた人たちである。しかし彼らが祝福を受ける根拠に注目しよう。5節「見なそう」と訳されたヘブル語はアキール、認める、見分ける、目を留めるなどの意味を持つ。つまり神が、良きに計らう意思がそこにある。神の一方的なあわれみの故に、彼らは建て直されるのだ。ただそれは同時に、「彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返る」と言う結果を生み出すのだから、彼ら自身の悔い改めの実でもある。

2.神の恵みとしての救い

また、捕囚の民は、神の憐みを受け祝福されるが、エルサレムに残された民は、その頑なさの故に滅ぼされるとは言うが、現実はそんなに簡単ではなかったことも覚えたい。捕囚の民が現実に味わった苦しみは、呪いの詩篇とも呼ばれる詩篇137篇に詳しい。神は祝福を語られる。しかし語られた瞬間、直ちに人生が好転し、バラ色になったわけではない。彼らはバビロンの地で、言い知れぬ苦悩を味わいながら、回復の道を辿っていくのである。

実際、捕囚の民の中には、直ぐにでも自分たちが捕囚の地から帰還できると期待する者も少なくなかった。しかし、神の時はその約50年後にやってきたのである。神は祝福を約束されるが、私たちが考えるようなスケジュール通りには進まないことがある。それでも、神は誠実なお方であると神を信頼し、心のすべてをもって神に立ち返り、神に従い続けるかどうかなのである。私たちは物事に、簡単に黒白をつけやすい。しかも世間の目で見た白黒をつけるものである。そして黒となれば、打ちのめされた思いになって、やり直し出来ないように考え易い。だが物事に黒白をつけるのは、神である。世間がなんと見ようが、神の「アキール」に期待すべきなのだ。そして神の誠実さに信頼すべきである。