10章 誠実の実を刈り入れよ
おはようございます。時代に不安を覚える時にこそ、モノや人ではない、時代を支配する恵み深い神を求めて歩むことが大切なのでしょう。国家安全保障の鍵は、神にあります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.イスラエルへの裁き
繁栄の絶頂にあり、何もかもが自分の思い通りに行くような時に、人は神が必要であるとは思わないものでしょう。神とは何物だ、と傲慢に陥っているものです。しかし一度、人生に躓き、無力感に襲われるならば、つい「神よ」と口にするか、絶望の果てに自らの命を絶つか、人はその弱さに苦しめられるのです。人は神に造られた者であり、そのまことの神を仰いで生きることが、本当なのです。しかし人は決してそのまことの神を求めようとはせず、まことの神のもとにひれ伏すこともありません。ホセアは言います。神、神と言うが「彼らの心は偽りだ」(2節)と。
そして、おそらくこの預言がなされたのは、ペカ王が暗殺された北王国末期のことなのでしょう。彼らは「私たちには王はいない、たとえ王がいても何ができようか」(3節)と言います。危機を乗り越える有能な指導者が必要とされていました。しかしそのような指導者を立ててくださるのも神です。まことの神を求めて生きることが国家安全保障の鍵なのです。そこで、神は彼らが寄り頼んだ偶像が、単なる作り物に過ぎないことを悟らせるために、その偶像を取り去ることを宣告します(5節)。
2.今が主を求める時
そして無政府状態に悩まされ、人間の指導者に期待できない、このような時にこそ、まことの神を求めよ、と語ります(12節)。これを明確に語るため、ホセアは、イスラエルの民に馴染み深い歴史的な事件、ギブアの罪を取り上げます。士師記19章に描かれている、ちょうど、「イスラエルに王がなかった時代」の出来事です。それはイスラエルには悪が蔓延り、同胞が殺し合う最悪な時代でした(士師19:30)。それ以来、神は、常に悔い改めを求めてきました。しかも、心からの悔い改めを求め、モノや人に頼るのではなく、神を求めるように、そうすれば、主の豊かな祝福が注がれると(12節)語り続けてきました。しかし彼らはその神の語り掛けに耳を傾けようとはしなかったのです。そのため、エフライム、つまり北王国はもちろんのこと、ユダ南王国まで、つまりイスラエル全体が、過酷な奴隷の生活を強いられる結果になるのです(11節)。実に、神の恵み深い警告を無視し、それにふさわしい報いを得たということでしょう(13節、ガラテヤ6:5-8)。
14節、シャルマンは、エフー王が納貢をしたシャルマヌエセル3世(2列王17:3、18:9)の可能性があります。そうすれば、イスラエルに侵入してきた最初の王ということでしょう。その時もイスラエルは混乱を極めた時代でした。
コロナ禍のこのような時代であればこそ、漠然とこれまで通りの信仰生活を送るのではなく、みことばによって深く心を掘り起こし、自らを省み、何が正しいかを考えて種を蒔き、誠実の実を刈り取る日々を目指して歩みたいものです(12節)。