マラキ書2章 神と一体になる
おはようございます。「神は人を一体に造られた」とは驚きです。「神は男と女を一体に造られた」というのではありません。神といかに向かい合って生きていくかが重要です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.祭司への裁きの宣告
神の民が、神を愛さない問題、これは、一重に祭司に帰せられると、神は言うのです。祭司は、民を神へ近づけるために立てられた者、しかしその祭司が用をなさなかったというわけです。1章は、そのように祭司を告発するものでしたが(6、10節)、この2章は祭司に対する裁きを語ります。そこで祭司イコール牧師・教師と単純に理解してはならないのでしょう。というのも、今日万人祭司という考え方があります。信徒も皆牧師ではありませんが、祭司ではあるのです。確かに信徒の主要な人生の目的は「主に栄光を帰す」、いわゆる祭司的人生を生きることにあります。神は、この役目を果たせないのであるならば、刑罰として祝福の代わりにのろいが彼らの中に送られる、と言うのです。一般に「祝福」は、物質的な繁栄と考えられますが(レビ26:3-13)その限りではありません。霊的な平安が奪われること、そして恥辱が加えられることです(3節)。大切なのはこのように語る神が「もし」を繰り返すことでしょう。裁きは神の本意ではないのです。神は愛であり、のろいではなく、祝福を注ぐお方です。
2.関係の破れ
しかしそもそも、何が問題であったか、5節からは、神との契約の破れについて語られます。鍵となることばは「レビとの契約」です。レビと祭司は同義語で使われています。レビ、いわば祭司に期待されたのは「主に栄光を帰す」働きでしたが、それは、彼ら自身が神と共に歩み、神のみ教えを語ることによって達成されるものでした。しかし、彼らが実際にやったことは、全く神の期待に反する、いいかげんなもので、契約に反することでした(9節)。
10節からは、神の嘆きが語られます。神との契約をないがしろにすることで、実際に起こっていたことは宗教的な雑婚でした。当時の背景として帰還民の中には、経済的な安定を求めて、妻と離別し異邦人の女と再婚する者たちがいたようです(エズラ9:1、ネヘミヤ13:23)。問題は異邦人の女の人種ではなく、宗教にありました。結果彼らは、異教的な影響を受け、神とも離別してしまうのです(14節)。結局、神への不忠実さは、最も親しい夫婦の関係への破壊にまで及び、その子どもを育てることの失敗でもあるのです。
3.民の第二のつぶやき
さてマラキは、民のつぶやきを再びとりあげます。先のつぶやきは「神を愛していないと批判されるのはなぜか」でした。今度は「悪を行う者が栄えるのはなぜか」です。しかしそれはつぶやきなのです。神はいるかもしれん、しかし、正しいことを行う神などいるものか、それが彼らの思いでした。神は彼らのそんな心のつぶやきに、飽き飽きしたと言うのです。大切なのは、ヨブのように、腑に落ちないことを神ととことん語り合う心を持つことでしょう。神を認め、神を信じるなら、空しくつぶやく人生から卒業することです。