ヤコブの手紙3章 舌を制御する
1.舌に注意せよ(3:1-12)
教会で教師になりたがる人は多いものです。まあ、人というのは教えたがりなのですね。本当に気を付けなければならないことだと思います。もちろん、教師を目指す、それ自体はよい志でしょう。しかし、キリスト教の教師は、自分の考えを披歴するのではなく、神の真理を伝える責任を持つのですから、その働きについて「格別厳しい裁きを受ける」ことは覚えておきなさい、と言います。ですから教える立場に立ったなら、常に自分を吟味することですね。やはり信仰は敬虔な生活に結び付いた実際的なものです。
特に意識すべきことは、舌、つまりことばです。しかし舌ほどコントロールの難しい筋肉もないでしょう。舌を制御する結果は、馬を御することや、船の舵をコントロールすることに等しいと言います。実際舌による損害は、山火事による等しい損害を与えることがあります。山火事で波のように広がる炎はとどまるところを知らないものです。悪意のある言葉を流し、自分が知らない人や何千キロも離れている人に対しても、中傷誹謗を流してしまうものでしょう。今風に言えば、ツイートに気を付けるということもあるのでしょうね。人間はあらゆる動物を飼い慣らしてきながら、舌だけは制御できていないとも言います(8節)。舌は矛盾し、神を賛美もし、人を呪いもするのです。舌は人を慰め、役立つこともありますが、常にではありません。もちろんヤコブは、沈黙は金なりと言いたいわけではありません。大切なのは、リンゴの木はリンゴの実だけをならせるのに、舌は相反する二つの実をならせることに注意することです。
2.舌を制御するコツ(3:13-18)
そもそもの問題は、どこにあるのか、それはイエスが言うように心でしょう(16節、マルコ7:20-23、マタイ15:18)。不平、自慢、嘘、偽り、といったことばが出てくるそもそもの源、それは汚れた心です。どうして嘘偽りを語るのか。それは、心がごまかしに満ちているからです。舌を動かす心を主にあって取り扱われ、真に変えられていくなら、舌も制御されるのです。
そこで13節以降は、決して唐突に話題が変わっているのではなく、内側の問題、それが言葉にも、行動にも現れることに注意を向けています。結局、心が曲がっているから、その人の言葉も行動も歪むのです。
ヤコブがここで対比しているのは、上から来た知恵と、苦いねたみと敵対心です。キリストにあって救われた私たちは上からの知恵に生きています。もはや古い肉の思いのままに生きているわけではありません。ここで言う知恵があるというのは、単に頭がよい、ということではありません。弁舌が巧みだということとも違います。むしろそれは清いもので、次に平和で、優しく、協調性があり、また、あわれみと良い実とに満ち、偏見がなく、偽善もない、と言います。物事を解決する時に、合理的に物事を進めるだけではなく、何かそこに、愛や思いやり、正しさ、聖さを感じさせ、人間を大事にしながら進めていく、それが上から、神に与えられる知恵の特徴なのですね。そのような知恵を示す人には、安心して信頼し、ついていくこともできるでしょう。しかしその心に偽りがあり、ねたみがあり、苦々しさがある人にどうして信頼を置き、物事を任せることができるでしょうか。そういう意味では、私たちは能力があること以上に、また知識があること以上に、心が清らかであることを大事にしなくてはならないのです。では、今日も良い一日であるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエスと使徒が実際に使った言語は何語でしょうか?答えは②アラム語でした。では、今日の聖書クイズを一つ。ヤコブの手紙は、公同書簡と呼ばれますが、公同は、何を意味しているでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
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