ヤコブの手紙2章

ヤコブの手紙2章 信仰と行い
1.きよく汚れのない宗教(2:1-13)
1章に続く、信仰者の実践として、良く起こりうる問題として「えこひいき」の問題が取り上げられています。人の名声、権力、財産によって、特別扱いをする、教会ではそんなことは終わらせましょう、と。この世の中ですら差別は疎まれるものでしょう。それなのに、神の愛に生きると言われているキリスト者が、まさに人をえこひいきしているとしたら、全く証しにならない、キリスト者と呼ばれている以上、それはキリストの御名を汚す行為だ(7節)、というわけです。そのような意味で、キリスト者は、最大の戒め、愛の戒めを守ることを大事にしなくてはならないのでしょう。人を愛するというのは、甘ったるい、感傷的な行為ではないのです。それは正しいことを行う力、自制する力、社会常識を持ちながら常識を覆す力を必要とする勇気ある行為でもあるのです。そしてヤコブは言います。えこひいきという一点で失敗するなら、全て台無しだ、と(10節)。私は人を殺したことなどないから、大丈夫だなんて言っても、姦淫してたら同じでしょ。神の戒めは、10あるのだし、10の一つでも欠いたら、戒めを破ったことに間違いはないのだ、というわけです。ですから、よくよく注意して、神のみこころに生きるように努めなくてはなりません。ただ、律法を守る勘所は何処か、と言えば、神があわれみ深いように、あわれみを大事にすることでしょう、と言います。13節「あわれみが裁きに対して勝ち誇る」というのは、日本流にいえば「情けは人の為ならず」ということ、ことに裁きの日にそれを実感するだろう、というでしょう(13節)。
2.信仰と行い
こうして14節からは、信仰に行いを加えることが語られます。行いは救いの要件ではありません。どんなによい行いを積んだとして、人はそれで救われるわけではありません。救いは、イエスの十字架にある罪の赦しを信じることによって得られるものです。けれども、救われたというのなら、新しい人生を生きるべきです。心を新たにされたのですから、水浴をして、新しい行いの衣服を着ていくべきでしょう。22節、信仰は、行いによって完成されるのです。ただ行いは、信仰の実というべきものです。自然に結ばれることが重要です。行いに急いで、再び偽善者になってもしょうがないのです(18節)。
そこでヤコブは、信仰の実が結ばれた実例をあげています(21-23節)。まずユダヤ民族の父として尊敬を集めたアブラハムの例です。彼はまず神を信じることで、その生き方の正しさを認められた人でした(創世記15:6)。そして迷わず神に従う生き方を、それから20年後、息子を神に献げる試練を通して証ししました(創世記22)。次に、ヤコブは、異邦人の娼婦ラハブを例にあげます。ラハブは、異邦人であるのに、イスラエルの神に対する信仰を表明した人でした(ヘブル11:31)。しかし、その信仰の裏付けとなったのは、イスラエルの偵察隊を匿い助ける、危険を冒す行為によってでした(ヨシュア2:6:17-27)。そしてヤコブは結論づけます「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです」(26節)信仰と行いは、密接に結びついているのです。
パウロは、救いの根拠としての信仰を強調しました。イエスキリストの十字架に対する信仰以外の何物も、救いの要件には加えられない、と。ヤコブは、救いの結果としての行いを強調した。信仰を持ったら、その信仰を証しする行動を取りましょう、と。パウロは暖炉の火を見、ヤコブは煙突の煙を見ている、と言えるでしょう。大切なことは、信仰の生活化です。信じるだけ、学ぶだけではだめで、やはり神のみことばに従うことが、大切なのです。では、今日も良い一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ヤコブの手紙は、宗教改革者ルターに、「藁の手紙」と揶揄されましたが、それはどんな理由によるものであったでしょうか?」答えは、福音的性格を持っていないと見なされたからです。ルターは、行いを強調するヤコブの手紙を否定したわけではなく、他の書と比べると福音的性格に弱く、軽い藁の手紙であると言いました。では、今日の聖書クイズを一つ。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエスと使徒が実際に使った言語は何語でしょうか?①ヘブル語、②アラム語、③ラテン語、答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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“ヤコブの手紙2章” への1件の返信

  1. 福井先生

    本日も有難うございます。

    人の目には、信仰は見えないので、
    「行い」と「信仰」を分けて説明する必要があるのでしょう。

    神さまは、人の心をご覧になるので、
    「行い」と「信仰」は不可分の一つとして見ておられるのだろう…と思いました。

    どこまでが信仰でどこからが行いなのか。
    ラハブの行いはともかく、アブラハムがイサクを捧げる場面は、
    思いと行動の境界線をかき消すような凄まじさを感じます。

    S.A.

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