ヤコブの手紙1章

ヤコブの手紙1章 み言葉を行う
1.神の知恵を求める(1:1-11)
キリスト教はエルサレム、つまりユダヤ人の社会から生まれましたが、当時、イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人の信仰者は、その新しい信仰のために厳しい試練にさらされました。この手紙の著者は、イエスの弟のヤコブであったとされていますが、ヤコブは、エルサレム以外に離散し、そこでも迫害にさらされていたユダヤ人クリスチャンに対して、心からの励ましの手紙を送るのです。
試練は、信仰の成熟に欠かせないもので、まず忍耐を働かせなさい、と言います。そして試練の時を乗り越えるのに必要なものは、何を差し置いても知恵であることに間違いありません。試練の中で、凹んだり、腐り果てたりせずに、試練の先を見越して、前向きに生きていくために必要なのは知恵なのです。だから知恵を求めなさい、何よりも、天来の知恵、神の知恵を求めなさい、と勧めます。神はそれを豊かに与えてくれるだろう、と言います。自分の頭はぼんくらで、この試練を乗り越えるには頭が弱すぎる、そう思うことがあっても、疑わすに、信じて、神に助けを祈り求めるのです。
また試練にあっては、正しい自己認識を持ちましょう。キリスト教会は、タテ社会を横の社会にします。ですから、当時貧しい人々は教会に来ることで自分たちが大事な存在だと教えられ、それを誇りとするように励まされました。他方、富んでいる人は、持っているものを鼻にかけることなく、むしろ、低き心に生きることを誇りとするように教えられたのです。「タテ社会の構造」という本を書いた社会学者の中根千枝さんは、日本の教会は、横のものをタテにしている、と言いました。もう半世紀以上も前の話ですが、正しい、聖書的な自己認識は大事なものです。
2.試練を生き抜く知恵(1:12-27)
12節、再び試練の問題。試練と誘惑は、紙一重です。誘惑を試練とすることはあっても、試練を誘惑にしてはならないのでしょう。誘惑に屈するのは、根本的に私たちの内なる弱さのため、私たちの問題です。神が誘惑を与えることはありません。むしろ、神は誘惑を試練とし、これに打ち勝つ力を与えてくださるお方、思い違いをしてはいけないのです。誘惑にあっては、上からの神の力を経験することです。
ですから、誘惑を試練とし、試練を乗り越えるためには、感情に注意することです。20節、人の怒りは神の義を実現しない。やはり、怒りに満ちた心、感情的に高ぶった心では、物事は冷静に捉えられないし、考えられないものでしょう。そして物事を聡明に考えるためには、神のみことばに寄り頼むことです。神のみことばによって、心を整えることでしょう。そして、神のみことばが示す正しいことをすることです。問題は、私たちの忘れやすい、頭の弱さでしょう。朝にこのようにディボーションをして聞いたことばも、午後には忘れているのではないでしょうか。神の言葉に留まり続ける工夫が、つまり「自由をもたらす完全な律法を一身に見つめて、それから離れない工夫」が必要ですね。まあそういう意味では、私も、小さなみ言葉カードなるものを作って、それに絶えず目を注いで試練の時をしのいだ経験もあります。大切なのは、試練にあっても心腐り果てた人間にならないことです。困っている人があれば世話をする人間的な心を失わない、そして、この世の汚れに染まらないことです。信仰を持つということは、人間らしさを担保するものなのでしょうね。では今日も良い一日となるように祈ります

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ヘブル人への手紙は、大きく前半と後半に分かれ、前半は教理編、後半は実践編になっていますが、それは何章からでしょうか?」答えは、11章からです。このように、教理編と実践編に分かれた二部構成の書き方が、パウロらしいので、この手紙の著者はパウロではないかと考えられた時代がありました。著者はわかっていません。では、今日の聖書クイズを一つ。ヤコブの手紙は、宗教改革者ルターに、「藁の手紙」と揶揄されましたが、それはどんな理由によるものであったでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
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私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!

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