19章 ギブアの惨事
1.ギブアに起こった出来事
1節「イスラエルに王がいなかった時代」、繰り返されるフレーズがあります。イスラエルに王が望まれた時代を描いた、次のサムエル記につなぐ意図を感じる書き方です。16章までの士師サムソンの記録以降は、士師と呼ばれる指導者の活躍よりも、イスラエルの混乱した社会の実像が淡々と描かれています。ミカとダン部族の物欲的、上昇志向的エピソードに、さらに倫理感の失われたエフライムの山地のレビ人のエピソードが加えられます。祭司の部族、いわゆる宗教的な指導者の部族とされるレビ人に、起こったこの出来事、イスラエルの倫理観の混迷の深さを物語るものと言えるでしょう。
2.指導者無き時代の本質
事件は、こうです。エフライムの山地のレビ人にめかけがいました。彼は自分を嫌って出て行ったこの女を取り戻そうと追いかけます。彼女と和解し、家への帰り道、ギブアの町で一泊した所、町のよこしまな者たちに襲われ、レビ人は自分を守るために、めかけを犠牲にするのです。そして翌日、このような悪があることを、全イスラエルに知らせ、悪を除き去る行動を起こすように、全部族に呼びかけて、めかけの死体を12に切り刻んで送ったという話です。
何ともおぞましい話ですが、聖書は当時の悪の現実、イスラエルに王がなかった時代、それぞれめいめい自己満足的に生きる結果が、どんな堕落の極みに至るのか、つまり、偶像礼拝(17,18章)、不品行、暴力、内乱(本章)の状況を描いています。神との掟を忘れ、自分の心の基準に従って歩みだすことによって、このような悪と混乱を極め、堕ちるところまで堕ちていった人間社会の状況を描き出しているのです。
注目すべきは、このレビ人です。彼はイスラエルの指導的な立場にある人でした。つまり、指導者無き時代というのは、指導者がいないわけではないということです。指導者がいるにはいるものの、機能していない時代なのです。政治家が政治屋でしかない時代、牧会者も牧会屋でしかない時代というわけです。本来、神のしもべとして、忠実に、一人一人を神に近づけ、神のいのちあることばに立たせていくはずの指導者が、その職務を形だけ行っていく時に、何が起こるか、ということでしょう。
実際このレビ人、取り戻そうとした女が殺されたというのに、女の死を悼むわけでもなく、レビ人らしく悪の告発に熱を入れるのです。そしてイスラエルは、彼の腹いせのリーダーシップに踊らされていくのです。というのも、女を殺したのはギブアのよこしまな者たちであって、ギブアの者たちではありませんでした。また、彼は自らそばめを危険にさらし、自分は朝までゆっくり休み、暴行受けた女を介抱することもしませんでした。つまり、冷酷でプライドの高い一人の指導者によって、あたかも事実である、と訴えられたことばに、善人のイスラエル人たちが利用されていくのです。預言者ホセアは、この出来事を、社会の腐敗を示す最悪な事例として引用しています(9:9,10:9)。
ともあれ社会が混迷していくその最たる問題は、リーダーシップにあります。一般の人々のみならず、地の塩、世の光としての役目を果たすべき神の民も、そして神の民の指導者も同じように塩気を失い、光を失っていく時代。後で私たちはルツ記において、そのような時代の中にも光る部分があったことを知るのですが、本章で押さえておきたいことは、レビ人、指導者たる者の堕落です。指導者が神の正義に立たないなら、その社会の混迷は一層激しいものとなるのです。塩味を持ち、光となるリーダーが望まれるところです。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。エリとサムエルの時代、礼拝の中心はどこにあったでしょうか?答えは、シロでした。では、今日の聖書クイズを一つ、ギブアが首都とされたのは、どの王様の時代であったでしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。
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